酪農振興~終戦工作を成し遂げた元首相・鈴木貫太郎が全身全霊で挑んだ最後の大仕事

鈴木貫太郎



スポンサーリンク


 今更ながら筆者は、「下手な横好き」という言葉が正しく相応しい素人の歴史愛好家である一方、30年前以上には、農林業系学科の高等学校に通学し、成人後は馬・羊・乳牛などの経済動物を飼養する複合型牧場で長年勤務していたという職歴も持っているので、農畜系にも少なからず興味がある者でもあります。
 歴史と農業、この2つの分野について多少なりの知識欲がある筆者でございますから、過去には馬と武士の歴史(落馬事故)や武田信玄と甲州武士団の開拓テクノクラート(技術官僚)というように軽い牧畜史・農業史のような記事を、このサイト内で執筆させて頂きました。
 明治期の陸軍軍人にして、晩年は栄爵(元帥の座)を自ら放棄するような形で故郷の無名中学校の校長に就任した秋山好古が、学生たちに今後の北海道の有望性や酪農推奨を大いに吹聴したことを紹介した記事も、先月公開させて頂きました。
 現代では酪農を含める畜産業全般の低迷が著しい業種ですが、日本に酪農業が本格的に根付いた19世紀後半~20世紀前半の江戸幕末・明治・大正の各期では、洋食の普及に伴って、食肉と共に牛乳の消費量が増加し、肉・乳を生産する畜産業は、西洋諸国から伝来した最先端産業というイメージがありました。また地理的に、米作には適さない山地や丘陵地を大幅に占める日本にとっては、乳牛・肉牛・緬羊・豚などを飼養する畜産業は、多くの山間地を切り拓くには好都合な近代産業でした。
 西洋の最先端畜産技術を導入するために明治政府の招聘を受けて、来日した有名な「ウィリアム・クラーク博士(札幌農学校初代教頭/事実上の校長)」や「エドウィン・ダン(馬の去勢や馬匹改良、競馬業発展に貢献。後に米国駐日公使)」といった、いわゆる「お雇い外国人教師」が、北海道の開拓・畜産振興や農業指導に貢献し、近代日本産業の発展に寄与したことは間違いありませんが、明治・大正期の日本人の中にも、最先端かつハイカラな畜産業に挑戦した偉人が存在します。
 「津田出(又太郎、和歌山県出身。幕末期における紀州藩の藩政改革の立役者)」や「関寛斎(人格的な江戸末期の医学者。後に官軍の軍医総監相当を歴任)などが、明治政府の要職を歴任したにも関わらず、その後に最先端産業の畜産業に転職する思い切りの良さを見せています。明治期の偉人が有望性を見出せるほど当時の畜産業は魅力的だったのです。(しかし残念ながら、津田・関の両人の畜産業は結果的に失敗に終わっていますが)



スポンサーリンク


 前掲の晩年期(大正末期)の秋山好古こそは、津田出らのように畜産業を本業としておらず、飽くまでも一人の教育者として、将来の畜産業発展とその振興に務めた人物ですが、好古に酷似する明治~昭和にかけて生き延びた偉人がもう1人存在します。しかも好古と同じく明治期の軍人であります。それが今記事の主人公となる『鈴木貫太郎』であります。

 鈴木貫太郎。西暦1868年1月11日(日本の暦では慶応3年12月)の生まれであり、この同年、貫太郎をはじめ日本海軍の至宝となる逸材が多く誕生しています。即ち、秋山好古の実弟である秋山真之(4月12日生)」、日露戦争で殉職し軍神と称せられる「広瀬武夫(7月16日生)」、海軍大将まで昇進し、後に政治家に転身して第31代内閣総理大臣となる「岡田啓介(2月14日生)」、そして、これは軍人ではないので蛇足になってしまいますが、貫太郎や真之が生前必ず耳にしたであろう有名な軍艦行進曲(現在はパチンコ店のテーマ曲でお馴染みですが)の作曲家である瀬戸口藤吉(6月29日生)も、1869年生まれであります。

 海軍軍人としての鈴木貫太郎は、当時最新兵器戦術であった水雷戦術を独自に考案・実行したことにより、彼の軍歴は大いに輝かしいものとなってゆくのですが、その中でも近代日本が経験した日清・日露の2大外征で、海軍の刺客と称される「駆逐艦・水雷艇」の艇長や司令官として大活躍したのは有名です。
 特に鈴木貫太郎が第4駆逐隊の司令官として出征した日露戦争の日本海海戦では、ロシアバルチック艦隊の戦艦3隻を魚雷戦術で撃沈するほどの大戦功を挙げていますが、この時、鈴木が採った戦術は、夜陰に紛れて至近距離から敵艦隊に魚形水雷をぶっ放し、敵艦にとどめを刺す「高速近距離射法」というものです。司令官・鈴木はこの戦法を成功させるために、本戦前から夜間での魚雷発射・距離測定など様々な艦艇戦術の猛訓練を行い、その猛烈ぶりから、後々まで鈴木の代名詞となる『鬼貫/鬼の貫太郎』という異名が誕生し、部下から畏怖されるようになります。
 因みに、鈴木貫太郎本人は晩年、自伝にて、視界が効かない夜間での上記の猛訓練(暗闇で目を慣らす)ことを『泥棒の稽古と同じであった』と諧謔に富んだ回想をしています。

 その後も鈴木貫太郎は、日本帝国海軍の水雷戦の第一人者として軍部内で順調に累進を重ね、ドイツ駐在武官や戦艦艦長を勤めた後、海軍の最高要職である連合艦隊司令長官や軍令部部長を歴任し、階級も海軍大将まで昇り詰めています。
 日本海軍での要職を歴任した後の1929年(昭和4年)、昭和天皇陛下のご要望に応える形で、海軍軍人の一線から身を退く形で予備役に編入、天皇陛下の第一側近である侍従長に就任します。
 因みに、鈴木貫太郎の後妻(前妻とは死別)の「鈴木たか(旧姓:足立)」は、東京女子高等師範学校(現在のお茶の水女子大学)の卒業を経て、同校の付属幼稚園の保母として勤務。後に皇孫御用掛として、当時幼少期であられた昭和天皇陛下(迪宮)、秩父宮(淳宮)と高松宮(光宮)の両殿下らの養育係を勤めた経歴を持っているので、夫婦揃って、天皇陛下のお側近くに仕えたことになります。
 昭和天皇陛下御自身も、鈴木たかさんのことを育ての親として慕っており、鈴木貫太郎が侍従長として陛下のお話の相手になった際は、「たかは元気にしているか?」「たかのことは、母のように思っている」と陛下は貫太郎に語ったのは有名です。
 夫婦揃って昭和天皇陛下からのご信任が厚かった侍従長・鈴木貫太郎でしたが、1936年(昭和11年)2月26日、「昭和維新(天皇親政と側近/君側の奸の排除)」を夢想する陸軍の複数の青年将校、それらに率いられた叛乱部隊の襲撃を受け、瀕死の重傷を負いますが、結果的に九死に一生を得ることになります。これが有名な「2.26事件」であります。(当時の内大臣・斎藤実、大蔵大臣・高橋是清、陸軍教育総監・渡辺錠太郎らは、叛乱部隊の襲撃を受け死亡)
 鈴木貫太郎は、幼少期や海軍士官期、最晩年の内閣総理大臣期にも何度か大事故や過激勢力の襲撃に遭うなどの危険極まりない災難を受けますが、その最たるものは、やはり侍従長在任期の2.26事件であり、銃弾を頭部や身体に受ける重傷を負いながら(事実、一時期心肺停止状態になる)も、生き残る強運ぶりを発揮しています。
 因みに、信頼している官僚らを殺害され、鈴木貫太郎侍従長を襲撃された昭和天皇陛下は激怒され、襲撃を敢行した陸軍将校らを『賊軍』とご断定された上、『朕が最も信頼せる老臣を悉く倒すは、真綿にて、朕が首を締むるに等しき行為なり』と仰せになられ、更に陸軍本部の賊軍鎮定が遅いことをお知りになられると、『朕自ら近衛師団を率ひ、此が鎮定に当らん』とまでご公言されたことも有名な逸話であります。
 辛くも2.26事件を生き延びた鈴木貫太郎は、侍従長を辞任しましたが、枢密院の副議長や議長を勤めた後、1945年(昭和20年)4月、昭和天皇陛下と陛下のご母堂であられる貞明皇后の強いご請願により、第42代内閣総理大臣に就任し、当時既に敗戦必死であった太平洋戦争を終結させるために全身全霊で挑むことになります。いわゆる後に終戦内閣と呼ばれる鈴木内閣を宰領する鈴木貫太郎首相は、当時満77歳という高齢であり、この首相就任時の年齢は戦前・戦後を通じて最高齢となっています。

 鈴木貫太郎率いる鈴木内閣が終戦(ポツダム宣言受諾)まで描いた傑作として、故・半藤一利先生原作の『日本のいちばん長い日』などがありますが、今記事では終戦工作を主題とするものではないので、詳細の記述は割愛させて頂きますが、正しく77歳という老骨に鞭打って、東京大空襲、広島・長崎の原爆投下など多くの人命を犠牲にしながらも終戦までの約4ヶ月間の混乱期を鈴木貫太郎首相とその組閣員の陸軍大臣・阿南惟機、海軍大臣・米内光政たち、そして昭和天皇陛下のご聖断によって、陸軍の暴発や内閣瓦解を未然に抑え、1945年8月15日に終戦を迎えることになります。そして、同日に鈴木内閣は解散しています。鈴木貫太郎が主宰した内閣は、正しく終戦を見届けてその政権を終えた終戦内閣でした。
 鈴木貫太郎と同じく海軍軍人として累進し、後に政治家・内閣総理大臣(第31代)も歴任、鈴木内閣組閣、終戦工作にも貢献した岡田啓介は、自身の娘婿であり鈴木内閣の内閣書記官長として首相を輔弼した迫水久常(後の池田内閣では郵政大臣などを歴任)に対して、『鈴木だからこそ、陛下のご聖断(ポツダム宣言受諾)を仰ぐことができた。他の者ではできなかった。』『我々軍人が、降伏を受け入れるということは、軍人ではないお前(迫水)には、決して理解できないだろう。』と語り、岡田は首相として終戦に導いた鈴木を高く評価しています。
 
 終戦工作を成功へと導き、内閣総理大臣を辞任した鈴木貫太郎は郷里である千葉県関宿(現:同県野田市)に、妻・たかと隠居生活を送ることになり、事実、敗戦から1年後の1946年(昭和21年)に行われたインタビューで、鈴木元首相は『敗戦の将は、今は田舎に引っ込んで、畑を相手に生きております。』と語っております。
 日清・日露の両戦役で「鬼の貫太郎」と異称されるほど大活躍し、後には海軍軍人の最高の栄誉職である連合艦隊司令長官、海軍作戦部の最高責任者である海軍軍令部長などの海軍要職を歴任した海軍軍人・鈴木貫太郎。
 海軍現役から身を退いた晩年期は、昭和天皇陛下の側近中の側近である侍従長を勤め、226事件で陸軍の若手将校の襲撃により、瀕死の重体に陥りますが、生き延び、遂には天皇陛下からの強いご要望により、太平洋戦争による滅亡から日本国を救うために、内閣総理大臣を拝命し、大きな混乱を起こすことなく終戦に導き、郷里の千葉県関宿に隠遁した首相・鈴木貫太郎。
 軍事と政治という国家生計の双璧での大活躍、そして複数の暗殺未遂の受難を受けた鈴木貫太郎の生涯は、歴史小説や近代小説などの創作物の主人公以上に、劇的な波乱万丈なものであると言っても過言ではないですが、その創作世界以上の劇的な実在人物の鈴木が生涯最後の仕事としたのは、『酪農振興』というものであり、一見穏やかなものに見えますが、敗戦で国土や人心が荒み、深刻な食料不足を抱える昭和期日本にとっては、将来の一助となるものでした。
 政界から身を退いた鈴木貫太郎は、妻のたか夫人と郷里の千葉県関宿に隠居生活を送ることになりましたが、同地は利根川と江戸川の分岐点に当たる関東地方の水上交通の要衝地点であり、戦国期には小田原北条氏や常陸佐竹氏の争奪戦の舞台となり、江戸期でも、徳川幕府も関宿を重視しており、常に譜代大名(譜代藩)を配置し、利根川水運と東北諸大名に対する抑えとしていました。
 鈴木貫太郎は、江戸末期に関宿藩を統治していた譜代大名・久世氏(石高5万8千石)に仕える家老・鈴木由哲(晩年期には関宿町町長も歴任)の長男であり、主家の飛び地である和泉国大鳥郡で誕生、幼少期は本籍地である千葉県関宿で育ち、少年期には群馬県前橋市に転居して、同地で学生時代を送っています。



スポンサーリンク



 
 先述のように、千葉県関宿は、利根川と江戸川の分岐点に当たるので、当然の如く草生いしげる河川敷もありました。
現在では、区画整理をして、市民が憩う公園を造ろうという都市計画案が出てくると思いますが、戦後間もない頃、関宿に帰郷した鈴木貫太郎は、草が生い茂る河川敷を見て、ここに乳牛を放牧して、関宿に新たな産業として酪農を興してみてはどうだろうと考え始めました。
 考え始めただけではなく、海軍軍人・政治家として数多な死線を超え、全身全霊にて国難に立ち向かった鈴木貫太郎は、早速、郷里・関宿に酪農を振興させるために行動を起こします。因みに、この当時(1946年)の鈴木は78歳という高齢であります。
 鈴木貫太郎自身は、正式な教育現場で農業技術や畜産学を学んだ経歴はありませんでしたが、妻である鈴木たかの実父である足立元太郎は、札幌農学校の2期生(有名な新渡戸稲造や内村鑑三と同級生)で、「大志を抱け」のW・クラーク博士から直々に農業技術を学んだ明治初期の俊英の1人であり、その長女であるたか夫人も実父の元太郎から影響を受けた女性であり、夫・貫太郎の酪農振興に協力しています。因みに、足立元太郎は、明治国家の主要輸出品目であった蚕生糸産業の振興のために尽力したそうです。
 鈴木貫太郎と前妻の間に誕生した長男・鈴木一(はじめ)は、継母のたか夫人(ひいては足立元太郎)の影響を受けたのか、一は東京帝国大学法学部を卒業後は、農林省に入省し、農林局・水産局・畜産局などの事務官として勤務、後に農林大臣秘書官や山林局長など農林省の重職を歴任しています。
 1945年に父・鈴木貫太郎が、昭和天皇陛下のご希望により内閣総理大臣を拝命した際、鈴木一は農林省を辞職し、内閣総理大臣秘書官として、貫太郎の終戦工作をサポートしていますが、上掲のように、一は農業全般に通暁した有能官僚、即ちテクノクラートであり、この有能な息子が、父・鈴木貫太郎が企図した酪農振興に協力したことが大きな原動力となっていったのです。
 農業畜産には素人であった鈴木貫太郎でしたが、妻の鈴木たかの協力があり、そして何よりも農林省官僚として長年活動していた長男・鈴木一の存在が大きかったことは間違いなく、酪農起業、牧草地転用など国に対する正式な諸手続きなどは、全て一が請負い、父の酪農振興計画を全面的にバックアップしています。
 鈴木貫太郎は、地元の役場職員や若手農家を自邸に招き、関宿での酪農振興についての有望性を大いに語り、協力を仰ぎました。当初、周囲の人々は鈴木の酪農振興計画には消極的であったと言われてますが、鈴木本人・たか夫人の熱意ある説得、元・農林省官僚であった鈴木一の優れた計画案によって、徐々に協力者が増え始めるようになり、関宿町役場でも、地元産業の振興案の1つとして酪農振興を取り入れることになりました。
 鈴木貫太郎らの熱意、鈴木の主治医であった濱野政三、関宿の農家・有志の協力により、1947年(昭和22年)、酪農産業を振興させるための「農事研究会」が発足し、同会は地元の若手農家を中心に始動してゆくことになります。
 千葉県野田市の公式HP内に掲載されている『郷土に酪農を根付かせた偉人 鈴木貫太郎翁』に拠ると、農事研究会が発足した後も鈴木貫太郎・たか夫妻は、研究会を全面的にバックアップすることに力を注ぎ、同会で行われる勉強会や講習会が開催された際は、鈴木邸の20畳の大広間を会場として提供し、講師を招く費用も鈴木が私費で賄うほどの徹底的ぶりでした。この講師を招聘するに当たって、鈴木の甥(鈴木の次弟・鈴木三郎の息子)に当たり、北海道大学農学部出身の岡本敏夫が講師の1人として招かれ、また先述のように、札幌農学校出身を実父に持つ鈴木の妻・たかも、農学関係者の人脈を持っていたことも幸いとなり、農事研究会で開かれる勉強会では多彩な講師陣が招かれたそうです。

 最晩年期の鈴木貫太郎は、上記のように郷里における酪農振興の発起人、その実現のために行動や協力を惜しまなかったことにより、千葉県関宿では酪農業は地域産業の1つとして根付くことになり、1965年(昭和40年)頃には、関宿町内で2000頭の乳牛が飼養されるまでになります。
 2015年8月、野田市教育委員会と関宿が語る会が刊行した『貫太郎翁の想い出 : 戦後70周年記念誌』という書籍がありますが、それに拠ると、一時期関宿の牧草地の収穫量は、酪農大国である北海道を上回り、全国1位になったそうです。これも鈴木貫太郎による酪農振興案の所産の賜物であります。
 東京新聞web版記事2015年8月5日付(現在はリンク切れ)に、『千葉から語り継ぐ戦争、終戦に導いた元首相・鈴木貫太郎 故郷であらためて光』というタイトルで、関宿を語る会の当時の会長であられた青木国雄氏(元農事研究会会員)が、記念誌が発行されるに当たって、青木氏のインタビューが紹介されており、鈴木貫太郎が関宿で酪農振興に尽力してくれたことについて以下のように、鈴木に対しての感謝の念を語っています。

『貫太郎さんは酪農を広めるなど、まちに生きる術(すべ)を与えてくれただけでなく、人のために尽くすという教えも残してくれた。』

 郷里・関宿の酪農振興を最後の大仕事とした元内閣総理大臣・鈴木貫太郎は、1948(昭和23年)4月17日、肝臓癌により関宿で逝去、享年81歳。亡骸は自邸近隣にある日蓮宗・実相寺に埋葬されます。荼毘にふした鈴木の遺体の頭部からは、かつて瀕死の重傷を負った226事件の銃弾が見つかったことは有名な逸話であります。
 関宿町の酪農振興および農事研究会は未亡人のたか夫人や会員を中心によって受け継がれゆき、町内の生乳量が増加したことにより、たか夫人は鈴木邸の敷地の一部を集乳所建設として提供しています。そして、この集乳所は現在でもJAちば東葛関宿集乳所として、稼働しています。
 1971年(昭和46年)9月23日、昭和天皇陛下から親も同然と敬慕され、4ヶ月という短期間ながらも内閣総理大臣夫人であった鈴木たかは、亡父・鈴木貫太郎の後を追って88歳で逝去。現在の鈴木邸の跡地には、鈴木貫太郎の遺品や写真などが展示されている鈴木貫太郎記念館(2023年11月現在は閉館中)が建っています。



スポンサーリンク


 鈴木貫太郎の最期の言葉は、『永遠の平和。永遠の平和』とされ、海軍軍人として多くの修羅場を乗り越え、後には内閣総理大臣として終戦工作に尽力した偉人である鈴木貫太郎だからこそ強く心を打つ至言となっておりますが、遺訓としては『正直に 腹を立てずに 撓まず励め』となっています。後者の方は、鈴木貫太郎記念館前にある記念碑の銘文、鈴木貫太郎の母校であった群馬県前橋市立桃井小学校(鈴木在学当時は第一番小学校厩橋学校)の基本目標・校歌としても採用されているほどの名文であります。因みに鈴木貫太郎記念館前にある記念碑の揮毫は、鈴木貫太郎を敬愛していた政治家・吉田茂(第45・48~51代内閣総理大臣を歴任)の手によるものであります。

 以上、海軍軍人として鬼貫と渾名されるほどの活躍、晩年は内閣総理大臣として終戦に尽力した大物・鈴木貫太郎が最期の最期に大仕事とした酪農振興について紹介させて頂きました。

(寄稿)鶏肋太郎

鶏肋太郎先生による他の情報
津田出(つだいずる)の解説~西郷隆盛と大久保利通も認めた紀州藩の埋もれた偉人

共通カウンター



スポンサーリンク


関連記事

コメント

  • トラックバックは利用できません。

  • コメント (0)

  1. この記事へのコメントはありません。


スポンサーリンク


Twitterfollow

共有御礼申しあげます



スポンサーリンク
ページ上部へ戻る