高橋是清【経世済民の男】 高橋是清の破天荒な人生とは


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高橋是清(たかはし-これきよ)は、幕府御用絵師・川村庄右衛門(47歳)の子として、1854年7月27日に江戸芝中門前町(芝大門)にて生まれた。

母・きん(16歳)は、この時、行儀見習いのために川村家で奉公しており、川村庄右衛門の手が付いた形となる。

そんな事もあり、高橋是清は、生後4日で里子に出されて、仙台藩の足軽・高橋覚治の養子となった。号は茜庵・秀幸。

なお、高橋是清の生母・きんは、のちに浜松町の塩物屋に嫁いで女の子を生んだが、24歳の若さで死去したと言う。

さて、高橋是清の養子先である高橋覚治には子がいなかったのだが、高橋是清が養子にもらわれてすぐに、実子ができたようで、以後、高橋是清はひとりで生きて行くため、10歳の頃から横浜に住むアメリカ人医師・ヘボンの塾にて英語などを学んだようだ。
ちなみに、この「ヘボン塾」は、現在の明治学院大学に発展している。
1866年、13歳のときからは、横浜のイギリス人・シャンドのボーイ(奉公人)として働いた。

1867年、英語が話せたことから仙台藩の藩命により、アメリカへ留学することになり、勝海舟の子・勝小鹿と共に海外へ渡った。
しかし、横浜に滞在していたアメリカ人貿易商・ユージン・ヴァン・リードに、学費や渡航費を着服されてしまい、また、ホームステイ先でだまされて3年契約の「年季奉公」契約書にサインしたため、オークランドの農園主ブラウン家に売られてしまい、奴隷と同じ生活を強いられた。
転々と奴隷先を渡り歩いたが、英会話と読み書きを習得したと言う。

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なお、アメリカへ渡る旅の途上、小遣いをすべて酒代に使ったようで、また、一緒に留学した友人からも酒代をとりあげたことが先輩にバレてしまい、サンフランシスコに到着すると「おまえはこの船で帰れ」と一喝されたという逸話も残っている。

1868年(明治元年)12月、奴隷解放署名などの活動の末、運よく解放されて帰国。
しかし、すでに幕府は倒されており、明治新政府が樹立しており、当時外国官権判事を務めていた森有礼の書生となると、その後、教官などを務めた。
この頃の高橋是清は目標を見失い、宴席では大酒を呑み、無一文になると馴染みの芸者のところに転がり込み、芸者の荷物運びとなっている。

また、友人の誘いで乳牛事業に出資して失敗したり、教え子の奨学金づくりのため、相場に手を出してひどい目にあったりした。
相場では、どうして損をしたのか究明するため、自ら相場の仲買店を買い取って、取引の実態を調査する熱心さもある。

1871年(明治4年)、唐津の英語学校・耐恒寮の教員に招かれる。教え子には辰野金吾、曽禰達蔵、天野為之、掛下重次郎らがいる。

東京に戻ると翻訳の仕事をしたが、1873年(明治6年)、森有礼の薦めを受けて文部省に入省し、十等出仕となりモーレー博士の通訳をした。


 
明治9年5月にからは、官立東京英語学校の教員も兼務して英語の教師をしており、共立学校(開成高校)の初代校長も一時務めている。
教え子には俳人・正岡子規、海軍中将・秋山真之などがいる。

明治14年には文部省、そして農商務省(経済産業省及び農林水産省)の官僚としても活躍し、1884年(明治17年)には農商務省の商標登録所長となると、明治18年にアメリカとヨーロッパに渡り、特許制度の視察を行った。

帰国すると、明治20年12月に、初代の特許局長に就任し、特許に関する法律を制定し日本の特許制度を整備した。

最初の妻は、里ゆう(西郷利右衛門の娘)で、死後に迎えた後妻は、志な(薩摩士族・原田金左衛門の長女)。

そんな中、伊藤博文内閣で初代文部大臣を務めていた恩人・森有礼が、大日本帝国憲法発布のその日に暴漢に襲われ、翌日死亡すると言う悲しい事件もあった。
更に友人の前田正名から日本の為だと頼まれて、ペルーの銀山を買収した会社の社長となり、1889年(明治22年)、官僚としてのキャリアを中断してペルーに赴いている。
しかし、現地の鉱山を調べてみると、廃坑であったことが分かり、だまされたと言う事で事業は失敗。
帰国後は、邸宅を売り家賃6円の借家住まいとなり、月給300円の特許局長も辞職した。

1892年(明治25年)、帰国すると、川田小一郎に声をかけられ、日本銀行に入行した。
手腕を認められて翌年には、九州全域を管下とする「西部支店」の初代支店長にも登用され、明治32年には日本銀行副総裁となっている。

明治37年(1904年)の日露戦争ま際には、日銀副総裁として、秘書・深井英五と共に戦費調達の為にイギリスへ赴き、戦時外債の公募を行った。
大国ロシアに日本は敗北すると予想される中、クーン・ローブ商会、ジェイコブ・シフや、ロンドン留学時代の人脈であるユダヤ資本が外債を引き受け、公債募集は成功を治め、日本は戦費を調達出来た。

1905年(明治38年)、貴族院議員に勅選され、公債募集の勲功により男爵授爵となり、1911年(明治44年)には、日銀総裁となっている。
ヒラとして日銀に入った高橋是清が、総裁にまでなったのは、かなり珍しい事と言えるだろう。

1913年(大正2年)になると、第1次山本内閣の大蔵大臣に就任し、立憲政友会に入党した。
ふくよかな容貌から「ダルマ蔵相」「ダルマさん」と呼ばれて親しまれたと言う。



1918年(大正4年)の原敬内閣においても大蔵大臣となり、1921年に原総理が暗殺されたあと、財政政策の手腕を評価されて、高橋是清は第20代内閣総理大臣に就任した。
同時に立憲政友会の第4代総裁となっている。
しかし、思いがけない総裁就任でもあり、大黒柱の原を失った政友会を立て直すことができず、高橋内閣は半年で総辞職している。

1924年、高橋是清は隠居して、爵位を長男・高橋是賢に譲り、自身は原敬のおひざ元の盛岡から衆議院議員に立候補し当選した。
そして、新たに総理大臣となった憲政会総裁・加藤高明のもとで、農商務大臣に就任。

1927年(昭和2年)4月、田中義一内閣では大蔵大臣に就任(3度目)。このとき金融恐慌の緊急対策として、3週間の支払猶予を認め、また、大量の紙幣増発で恐慌を沈静化させている。
片面だけ印刷した急造の200円札を大量に印刷し、銀行の店頭に積み上げて、預金者を安心させたのは有名な話である。
この高橋是清の積極財政は、ケインズの登場よりも早く、のちのケインズ政策的な内容をすでに行って日本をデフレから脱却させた。

1927年6月、混乱する日本経済をデフレから世界最速で脱出させ、金融恐慌が終息すると、大蔵大臣を依願免職した。

1931年(昭和6年)12月、犬養毅内閣にて大蔵大臣に就任(4度目)。
世界恐慌のさなか、高橋是清の施策により、日本は欧米諸国よりもかなり早く不況とデフレから脱した。
1932年(昭和7年)5月、五・一五事件により、犬養総理が暗殺された際には、内閣総理大臣を10日間臨時兼任している。
そして、親友でもある齋藤實内閣にて大蔵大臣を留任(5度目)。



1934年(昭和9年)7月、斎藤内閣が総辞職して、共立学校での教え子にあたる岡田啓介内閣が発足すると、次官・藤井真信を大蔵大臣に推薦したが、11月に藤井真信が肺気腫で倒れて辞任した為、後任として高橋是清が大蔵大臣に就任(6度目)した。
積極財政により不況から脱出させた高橋是清であったが、その結果インフレの兆候が見え始めたため、陸軍省所管の予算削減するなど緊縮財政策を取ったのだが、中国大陸への進出を拡大したい軍部の恨みを買ってしまい、二・二六事件での標的の1人となる。

1936年(昭和11年)2月26日、中橋基明中尉と中島莞爾少尉が指揮する襲撃部隊が赤坂表町3丁目の高橋私邸を襲撃した。
下記は東京の江戸東京たてもの園に移築されている高橋是清亭で、2階にいたところを襲撃された。

警護していた警察官・玉置英夫巡査が奮戦したが重傷を負い、高橋是清は拳銃にて6発撃たれたうえに、軍刀でとどめを刺されて即死。享年82。

葬儀は陸軍の統制によって、1か月後に築地本願寺で営まれている。
事件後に位一等追陞され、大勲位菊花大綬章が贈られた。

亡くなってから15年後の1951年、五十円紙幣の肖像に高橋是清が裏ばれたが、日本銀行券に日銀総裁経験者の肖像が使われたのは、唯一の例である。

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