三浦梧楼 明治時代の陸軍を担った長州藩出身の武闘派


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 三浦梧楼(三浦梧樓)(みうら-ごろう)は、長州藩士の陪臣・五十部吉平の5男として1846年11月15日に生まれた。
 長州藩の藩校・明倫館で学び、その後、奇兵隊に入隊して第2次長州征伐や戊辰戦争に参加した。

 明治維新後の明治4年2月15日に兵部省に出仕し、兵部少丞から陸軍大佐、明治4年12月14日には陸軍少将と瞬く間に昇進し、東京鎮台司令長官となった。

 明治6年には陸軍省第3局長となり、台湾出兵には反対している。

 明治9年(1876年)、前原一誠が起こした萩の乱の際には、その鎮圧を担当した。
 明治10年3月10日、西南戦争では30歳で別働第3旅団長に就任し、九州各地を転戦し、城山(鹿児島城)を陥落させた。

 明治11年(1878年)11月20日、陸軍中に昇進、西部監軍部長となっている。

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 長州勢では井上薫と伊藤博文が明治政府に入り、山県有朋と三浦梧楼が軍部を担っていたが、薩摩藩・長州藩といった藩閥政治には反対したと言う。
 ちなみに薩摩勢では黒田清隆、松方正義が明治政府で、軍部は大山巌西郷従道が担当していた。

 三浦梧楼は山縣有朋と奇兵隊時代から不仲であり、谷干城・鳥尾小弥太・曾我祐準らとともに反主流派を形成した「月曜会」の中心人物として、山縣有朋・大山巌らと対立した。

 明治14年(1881年)、開拓使官有物払下げ事件では、谷干城・鳥尾小弥太・曾我祐準と連名で、議会開設及び憲法制定を訴える建白書を提出したため、翌年には陸軍士官学校長に左遷されている。

 明治18年(1885年)、陸軍卿・大山巌と共にヨーロッパの兵制を視察し、明治19年に帰国した。
 そして、陸軍改革の意見書を提出したが、翌年には熊本鎮台司令長官に左遷されたため、就任を拒否してまもなく休職し、明治21年(1887年)になると予備役に編入された。

 なお、同年明治21年から明治25年まで、学習院の院長兼宮中顧問官を任官。

 明治23年(1890年)7月には、子爵による互選で貴族院議員に選出されたが、翌明治24年9月には辞職している。

 明治28年(1895年)9月1日、日清戦争後の日韓関係がギクシャクする中で、井上馨に代わって駐朝鮮特命全権公使に就任。
 赴任前に日本政府の方針を聞いたが、明確な回答が無く「なら俺の好きにやる」と言ったとされる。

 公使館付武官であり朝鮮政府軍部顧問の楠瀬幸彦中佐や、邦字新聞「漢城新報」社長の安達謙蔵らの協力を得て、明治28年10月8日の閔妃暗殺を指揮したとされ(乙未事変)、事変後、関与したとされる他の日本人とともに日本に召還され、広島にて投獄された。
 なお、後任の在朝鮮日本公使は小村壽太郎が就任している。

 事件は一国の公使が在任国の宮廷にて、王族を殺害するという前例のない出来事であったが、翌年、広島地裁や軍法会議の結果、証拠不十分として日本人関係者は全員無罪となり釈放された。
 その為、朝鮮では最初の反日武装闘争である義兵闘争が起こる要因となり、ロシアが朝鮮に介入する事となり、日露戦争に発展した。

 明治41年(1908年)4月1日、後備役。

 明治43年(1910年)には、桂太郎首相の要請を受けて枢密顧問官に就任した。

 伊藤博文亡き後の大正期には「藩閥打倒」を訴え、政界の黒幕としても活動。
 政党政治期の大正5年(1916年)と大正13年(1924年)の2度にわたって、対立する政党間の党首会談を仲介するなど精力的に活動し「護憲三派」結成にも貢献している。

 最晩年には口述筆記で、著作を2冊出版した。

 栄典は従一位勲一等子爵。号は観樹。

 大正15年(1926年)1月28日に死去。81歳。

 (参考)Wikipedia

 

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