尾高平九郎(渋沢平九郎)とは 渋沢栄一の見立て養子になった飯能合戦の勇士

尾高平九郎(渋沢平九郎)



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尾高平九郎とは

尾高平九郎(おだか-へいくろう)は、武蔵国榛沢郡下手計村(埼玉県深谷市下手計)名主である尾高保孝(尾高藤五郎保孝)の末子として、幕末の弘化4年(1847年)に生まれました。
母は尾高やへ(渋沢元助の姉)で、兄に尾高新五郎(尾高惇忠)や、姉に尾高千代などがいます。

渋沢平九郎

兄・尾高惇忠は、学問に秀でており、家業のかたわら、自宅にて私塾・尾高塾を開いて、近郷の子供らに学問を教えています。
7歳年上の渋沢栄一(渋沢栄二郎)も門弟のひとりで、尾高家に通って数年間、論語などを学びました。
尾高平九郎も学問・文芸を心がけ、10歳の頃には、神道無念流の剣術も学び始めました。
そんな折り、1858年、姉の尾高千代が、渋沢栄一と結婚します。



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尾高平九郎は、神道無念流も人に教えるくらい上達したと言いますが、高崎藩内も尊王攘夷に傾き、兄・尾高惇忠・尾高平九郎・渋沢成一郎・渋沢栄一らは、尾高家の2階にて、高崎城乗っ取り、横浜外国人居留地焼き討ちの計画を立てます。
しかし、文久3年(1863年)、京都から戻った兄・尾高長七郎から説得されて、計画は実行されませんでした。

尾高惇忠の屋敷

そんなこともあったため、1864年6月5日、兄・尾高惇忠が水戸天狗党との関係を疑われて捕縛された際に、尾高平九郎も、一晩拘留されることになり、手錠されて、一時、宿預けになっています。
兄・尾高長七郎と、渋沢栄一は京都に出奔しています。

渋沢平九郎として

渋沢栄一は京にて一橋家の家臣・平岡円四郎の推挙により、一橋慶喜に仕えると、徳川慶喜の幕臣になりました。
そして、1867年、パリの万国博覧会に出席するため徳川昭武の随行員となった際に、渋沢栄一は妻・渋沢千代に手紙を出しています。

見立て養子これ無くてはあい成らず候につき、平九郎こと養子のつもりにいたし置き候あいだ、さよう御承知成さるべく候

このように、尾高平九郎は、渋沢栄一の見立養子にもなったことから、一般的には渋沢平九郎(しぶさわ-へいくろう)と呼ばれることが多いです。



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渋沢栄一の嫡子扱いになった渋沢平九郎は、幕臣の子として、姉・渋沢千代と共に、江戸の屋敷にて生活するようになったようです。
しかし、大政奉還となったため、渋沢平九郎は、下手計村の兄・尾高惇忠のもとへ行き、相談をしています。
そして、王政復古の大号令、1868年になると鳥羽伏見の戦いとなって、新政府軍が江戸城に向けて進軍を開始しましたが、これらをフランスにいる養父・渋沢栄一にも手紙で、逐一、報告しています。

1868年2月、徳川慶喜が江戸城を出て寛永寺にて蟄居すると、旧幕臣らは上野にて彰義隊(しょうぎたい)を結成しました。
この時、徳川慶喜の右筆を務めていた従兄・渋沢成一郎(渋沢喜作)が、結成当初の頭取(最高責任者)に投票で選出され、渋沢平九郎も計画段階から加わっています。
そして、彰義隊において渋沢平九郎は、大ニ青隊伍長に任命されました。
また、渋沢平九郎は蟄居している徳川慶喜の様子も確かめに行っています。

続いて、彰義隊にて意見が合わなかった副頭取の天野八郎が、渋沢成一郎を暗殺しようとしため、渋沢平九郎ら100名と上野彰義隊を離脱します。
西多摩郡田無村(田無市)の総持寺に入ると、渋沢成一郎と尾高惇忠らは、隊士を集めました。
そして、箱根ケ崎(瑞穂町)から、江戸を目指しましたが、彰義隊と新政府軍が、上野戦争となり、旧幕府軍が敗北したと知らせを受けると田無に戻りました。


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彰義隊の生き残りも合流して、総勢1500名になったとあります。
そして、飯能(はんのう)に向かうと、能仁寺に本営を置き「振武軍」(しんぶぐん)を結成しました。

飯能の戦い(飯能戦争)

彰義隊に勝利した官軍約3000名が、尾江四郎左衛門に率いられて飯能に近づくと、1868年5月23日、飯能の戦い(飯能戦争)とになりました。
戦闘は僅か数時間で雌雄を決し、能仁寺(のうにんじ)は延焼。
飯能の市街地も半分が焼失し、振武軍は敗走しました。

渋沢成一郎は、被弾して負傷したため、尾高惇忠に抱えられて伊香保(群馬県渋川市)に逃れています。
参謀・渋沢平九郎は、はぐれてしまい、変装して顔振峠へ敗走。
このとき、渋沢平九郎は、顔振峠に差し掛かり、疲れて峠の茶屋に入ると、女主人に茶を求めました。
この時、女主人は、飯能の残兵だと察したようで、探索を振り切って逃れるのに、刀を持っていたら怪しまれると心配し、渋沢平九郎は「それも道理だ」と大刀を預けたと言います。
その後、渋沢平九郎は黒山村(越生町黒山)に降りましたが、このとき、広島藩・神機隊の監察・藤田高之の偵察部隊と遭遇しました。

渋沢平九郎自決の地

「その方、飯能から参ったな?」という質問に顔色を変えてしまったとされ、バレて戦いますが、大刀はなく、小刀で応戦し、その気迫に、敵も逃げて行ったと言います。
しかし、右肩を斬られ、足には銃弾を受けており、最後を悟った渋沢平九郎は、川岸の岩(渋沢平九郎自決の地)に座って、自刃しました。享年22。

渋沢平九郎自決の地

渋沢平九郎は、首を新政府軍に持ち去られ、今市宿(越生町)に運ばれて、さらし首となっています。
新政府軍も、村人も、この遺体の名前がわからなかったので「脱走兵」と認識したようです。
遺骸(胴体)は、黒山村の人々が、名前が不明のまま全洞院(越生町黒山)に埋葬しました。
壮絶な最期を称して「脱走の勇士様」(だっそさま)と呼び、首から上の病気に効く神様として崇めています。

兄・尾高惇忠(尾高新五郎)と、渋沢成一郎は、渋沢平九郎の死にも気が付かず、伊香保、草津、前橋へ逃れて、秘かに江戸に入ると榎本武揚に合流して、旧幕府軍とともに箱館戦争にも参じました。



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数年後、尾高惇忠が地元に帰ると、振武軍の若者が壮絶な死を遂げたと言う話を聞き、事の次第が少しずつ明らかになります。
広島藩神機隊隊長・川合鱗三が、この自刃した若者が所持していた小刀を保管しており、渋沢平九郎の刀であったことが確認されました。
小刀は26年ぶりに故郷へと戻ったと言います。(涙)

渋沢平九郎

明治6年(1873年)8月、渋沢栄一の指示にて、側近の柴崎確次郎(柴崎義行)が、渋沢平九郎の首と骸を、谷中霊園の渋沢家墓地に改葬しています。
その後、全洞院に平九郎の墓石も建てられています。

渋沢平九郎の墓

渋沢平九郎の墓は、黒山三滝で有名な、埼玉県入間郡越生町黒山の全洞院にあります。
のちに、渋沢栄一らが供養のため、墓を作りました。

渋沢栄一

下記が、全洞院の入口になります。

全洞院の入口

川を渡って、階段を少し登ると、全洞院の建物がありますが、無人のようです。

全洞院

その全洞院の建物の右手にある墓地の最上部に、渋沢平九郎の墓があります。

渋沢平九郎の墓の入口

下記が、全洞院にある渋沢平九郎の墓になります。

渋沢平九郎の墓

全洞院への交通アクセス・行き方ですが、全洞院がある場所は、当方のオリジナル地図関東にて「全洞院」と検索してみてください。
道路の反対側付近に、町営の無料駐車場(未舗装)がありますが、付近にトイレは無いようです。
自刃の地は、道路を登って、黒山三滝の三叉路を、左折したちょっと先の道路右側にあります。
全洞院から、渋沢平九郎自刃の地までは、約350m、徒歩5分くらいの距離です。
自刃の地に駐車場はありませんが、手前・左側の路肩に、短時間であれば、止められそうです。


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2021年のNHK大河ドラマ「青天を衝け」では俳優の岡田健史(おかだ-けんし)さんが、尾高平九郎(渋沢平九郎)を演じられます。

尾高惇忠(尾高新五郎) 富岡製糸場の初代場長
尾高千代 (渋沢千代) とは 渋沢栄一の最初の正妻
渋沢栄一とは 日本の実業界・社会福祉・教育などに大きく貢献
渋沢成一郎(渋沢喜作)とは 彰義隊・振武軍のリーダー
平岡円四郎 一橋家の家老で慶喜の側近
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高田哲哉日本の歴史研究家

投稿者プロフィール

高田哲哉と申します。
20年以上、歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して史跡も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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