徳川昭武の解説~ココアを飲んだ最初の日本人?【青天を衝け】

徳川昭武



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徳川昭武とは

徳川昭武 (とくがわ-あきたけ) は、幕末における、水戸藩での最後となった11代藩主で、1853年に生まれました。
父は、9代藩主・徳川斉昭で、18番目の男子であり、母は、側室の万里小路睦子(万里小路建房の娘)となり、江戸・駒込にあった水戸藩中屋敷で誕生しました。
幼名は余八麿で、折しも、ペリー提督が浦賀に来航し、動静が不安定な時期に、生まれたことになります。
幼い頃の多くは、水戸城にて過ごしたようです。

水戸城

1860年、蟄居していた父・徳川斉昭が水戸で急逝して、徳川慶篤(とくがわ-よしあつ)が、水戸藩第10代藩主となりました。
1862年、兄の徳川慶喜が将軍後見職となり、1863年、9歳の徳川昭武は、江戸にもどっています。
また、兄で藩主の徳川慶篤と、補佐役である兄・松平昭訓らが、江戸幕府の将軍・徳川家茂に従って、上洛しました。
この時、兄・松平昭訓が、病に伏せったため、看病の名目にて、10歳の余八麿(徳川昭武)が、上洛して、兄・徳川慶篤の補佐を務めました。
そして、久坂玄瑞らが蜂起した、禁門の変では、兵士を率いて、御所を守っています。
1864年、常陸で発生した、天狗党の乱でも、討伐に当たりました。



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1866年、第二次長州征伐のあと、兄・徳川慶喜が、江戸幕府第15代将軍に就任しています。
そして、1867年、徳川斉明以来、後継ぎがいなく途絶えていた、御三卿のひとつである清水徳川家を、13歳の徳川昭武が相続し、清水徳川家の第6代当主となりました。
同時に、幕府より、将軍・徳川慶喜の名代として、幕府と友好的なフランスで開催される、パリ万国博覧会に出席するよう、ヨーロッパ派遣を命じられました。

パリ万国博覧会への使節団

1867年2月、フランス郵船の蒸気船アルフェー号にて、横浜港を出港し、香港に寄港し、アンペラトリス号に乗り換えると、仏領サイゴン、シンガポール、セイロン、スエズ経由と、約50日の航海にてフランスに渡っています。
なお、スエズ運河は、1869年11月17日開通ですので、まだ工事中だったようで、スエズからは陸路にて、カイロを経由して、アレキサンドリア港から、サイド号に乗船し、マルセイユに入りました。

使節団の責任者は、若年寄格・勘定奉行格・外国奉行を務めていた向山一履です。

団随行員は、徳川昭武(民部公子)の小姓らで構成され、渡航経験がある田辺太一杉浦譲、保科俊太郎、栗本鋤雲など7名が警護役を務めました。
会計係は、幕臣になっていた渋沢栄一で、随行医は高松凌雲、通訳は山内堤雲と、翻訳者として箕作麟祥です。
また、幕臣・山高信離、会津藩から海老名季昌・横山常守、佐賀藩の佐野常民、播磨山崎藩からは木村宗三、薩摩藩からは家老・岩下方平(岩下佐治右衛門)、唐津藩からも留学生が同行した模様です。
その他、世話掛であるフランス領事レオン・デュリー、英国公使館の通訳・シーボルトも、イギリス帰省のために同行しました。
パリに入ると、カプシンヌ街のガランドホテルにて滞在したようで、徳川昭武は、ナポレオン3世と謁見しています。

そもそも、万国博覧会(ばんこくはくらんかい)とは、国家レベルで参加するイベント(催し物)で、最先端の産業や、伝統工芸などの成果を、世界に披露する場と言えます。
今では普通に我々が利用している「エレベーター」「電話」「電気自動車」など、最新の商品などが展示されたなど、新たなアイデアの創造発信の場となっています。
略称は「万博」(ばんばく)で、今度、日本では、2025年に、大阪万博が予定されています。
江戸幕府は、フランスと仲が良かったことから、1867年のパリ万国博覧会に、日本としては初めて出展しました。
江戸幕府、薩摩藩、佐賀藩が、浮世絵、青銅器、磁器、焼酎などを展示し、輸出拡大を狙いました。

民間人唯一の出品者である商人・清水卯三郎の一行は「茶室」を設けて、柳橋芸者(おすみ、おかね、おさと)を、今でいうコンパニオンとして登場させ、独楽(コマ)を回しを披露ししたようで、とても人気があったと伝わります。
また、展示品の芸術性も認められて、パリ万博で日本のパビリオンは「最優秀賞」を受賞し、世界への日本のアピールを、大成功に納めました。



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参加42ヶ国、1500万人来場となった、パリ万国博覧会(Expo 1867)が終了すると、江戸幕府の代表として、スイス、オランダ、ベルギー、イタリア、イギリスなど欧州各国を訪問しました。
オランダ王ウィレム3世、ベルギー王レオポルド2世、イタリア王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世、イギリス女王ヴィクトリアとの謁見を行っていますが、徳川昭武は「プリンス・トクガワ」と呼ばれていたようです。
歴訪が終ると、徳川昭武はパリに戻って、留学をはじめています。
フランスの教育係は、軍人・ヴィレットで、以後、亡くなるまで、40年前後、交流を持っています。

慶応4年(1868年)、兄で将軍の徳川慶喜が、大政奉還を行ったと、外国奉行・川勝広道から書状で知らされました。
その手紙を、パリで受け取った頃には、鳥羽・伏見の戦いで幕府軍は敗走し、江戸城も開城したと言う事になります。
3月に入って、フランスの新聞が、戊辰戦争を掲載したことから、一部の随行者は日本に戻りました。
ただし、徳川昭武ら7名は残留したようですが、仕送りが途絶えて滞在費が枯渇し、帰国費用も、工面できなくなり、渋沢栄一が実家に援助を頼んでもいます。
その後、5月15日、明治新政府から、帰国命令者が届いたため、徳川昭武らは帰途の準備を始めます。
また、同じころ、水戸藩主・徳川慶篤が死去しており、徳川昭武は、水戸藩の次期藩主に指名されることとなり、水戸藩士の井坂泉太郎、服部潤次郎が、出迎えるためヨーロッパに旅立ちました。
なお、徳川昭武の日記では「朝8時に、ココアを飲んだ」との記述があり、文献で確認できる、ココアを飲んだ最初の日本人とされています。

1868年9月4日、イギリス船・ペリューズ号にて、フランス・マルセイユを出航し、11月3日、神奈川に到着しました。

最後の水戸藩主に

日本に戻った徳川昭武は、翌年1869年(明治2年)に、水戸・徳川家の家督を相続し、水戸藩主になっています。
しかし、すぐに版籍奉還となって、水戸藩知事に役職が変わりました。
明治4年(1871年)には、廃藩置県にて、藩知事を失職し、東京・向島の小梅邸(旧水戸藩下屋敷)に住まいを移しています。
その後、徳川昭武は、軍人を育成する道を進み、明治7年、陸軍少尉となりました。
陸軍戸山学校にて、生徒隊に軍事教養を教えています。
明治8年、中院通富の娘・盛子(栄姫・瑛姫)と結婚しますが、翌年には、アメリカ・フィラデルフィア万国博覧会の御用掛に任じられて、アメリカに渡り、その後、兄弟の土屋挙直・松平喜徳とフランスで再び留学しています。



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明治13年(1880年)に留学を辞めると、同じく留学中の甥・徳川篤敬(長兄・徳川慶篤の長男)と一緒に、ドイツ・オーストリア・スイス・イタリア・ベルギーを旅行したあと、ロンドンに6ヶ月滞在し、ようやく、明治14年6月に帰国しました。
新婚だった、奥様は、とてもつらい思いをしたかも知れませんが、明治16年(1883年)1月に、長女・徳川昭子が生まれています。
しかし、産後の経過が悪く、妻・盛子が翌月に死去。
徳川昭武は、隠居し、水戸・徳川家の家督を、甥の徳川篤敬に譲り、松戸城跡に戸定邸(とじょうてい)と呼ばれる屋敷を新築して、移しました。

戸定館

隠居してからは、駿府に暮らす、兄・徳川慶喜を度々訪ねており、同じ趣味の写真などでの交流も、深めたようです。
また、麝香間伺候として、明治天皇にも、長年、奉仕しました。

1897年(明治30年)、徳川慶喜が東京・巣鴨に移りますが、翌年、徳川篤敬が死去(享年44)。
遺児となった徳川圀順が、11歳で水戸徳川家の当主となったため、徳川昭武が後見しました。

明治43年(1910年)7月3日、徳川昭武は、東京の小梅邸にて死去。享年58。
墓所は、水戸徳川家の墓所になっている、茨城県常陸太田市の瑞龍山です。



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松戸の戸定邸は、屋敷が現存しており、国指定重要文化財として公開・整備されています。
また、前庭の「旧徳川昭武庭園(戸定邸庭園)」は、国指定名勝となっています。

戸定館

2021年のNHK大河ドラマ「青天を衝け」では、徳川昭武を、俳優の板垣李光人(いたがき-りひと)さんが、演じられます。

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高田哲哉日本の歴史研究家

投稿者プロフィール

高田哲哉と申します。
20年以上、歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して史跡も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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