高松凌雲の解説~日本における赤十字運動の先駆者

高松凌雲



高松凌雲とは

高松凌雲 (たかまつ-りょううん) は、幕末の医師で、天保7年(1836年)、筑後国御原郡古飯村(福岡県小郡市)の庄屋・高松与吉の3男として生まれました。
安政3年(1856年)、19歳になると久留米藩の家老・有馬飛驒の家来である川原弥兵衛の養子となります。
この時、高松権平と言う名を改めて、武士・川原荘三郎となって武術や漢書を生美、有馬飛弾の小姓を勤めました。
しかし、久留米藩でも、幕府派と攘夷派と分かれて争い、また、家老の家来(陪臣)では、出世の道も無いため、武士に見切りをつけ、24歳の時に脱藩します。
そして、江戸にいる兄・古屋佐久左衛門を頼ると、医師を志し、蘭方医・石川桜所の子弟となって、西洋医学を学びました。



この兄・古屋佐久左衛門(ふるやさくざえもん)も、優秀な人物で、大坂で医学を学びましたが、自分は医者に適していないと判断して江戸に出ると、英語・オランダ語・ロシア語・漢学・蘭学・ロシア学・算術・砲術・剣術などを学びました。
すると、江戸幕府の外国奉行・川勝広道に認められて、旗本・古屋家の養子になっていた次第です。

高松凌雲は、医師として更に学ぶべく、大坂の適塾に入って、緒方洪庵に師事すると、オランダ語もマスターしています。
更には江戸幕府が開いた英学所に入学し、英語も話せるようになりました。

幕府陸軍の訓練も担当するように抜擢されてきた兄・古屋佐久左衛門から話も聞いたのか?、慶応元年(1865年)、一橋家が、高松凌雲を専属医師(藩医)として採用します。
そして、一橋家の徳川慶喜が、第15代将軍となったため、高松凌雲は、30歳で将軍家お抱えの奥詰医師と言う、医師として最高の栄誉を授かりました。

フランス留学

慶応3年(1867年)、日本はパリ万国博覧会に参加するため、徳川昭武が代表となって使節を派遣します。
この時、西洋医学の知識と語学力もある高松凌雲は、随行医に選出され、渋沢栄一らとパリに渡り、スイス、オランダ、ベルギー、イタリア、イギリスなども視察しました。
そして、パリ万博が終了したあとも、幕府の留学生としてヨーロッパに残るよう指示され、公費にて留学を続けています。



留学先はパリ市立病院「神の家」という医学学校で、麻酔を用いた開腹手術などの技術を得ました。
この「神の家」は、病院も兼ねており、無料で診察を行う貧乏病院でしたが、設備は整っており、貴族・富豪などからの寄付で運営されていたことに、大きな衝撃を得たようです。
その間、日本では、大政奉還、鳥羽・伏見の戦いとなり、留学を続けられなくなった高松凌雲が、フランス郵船でにて本に帰国した際には、すでに幕府は滅亡していたと言う事になります。

兄・古屋佐久左衛門も、鳥羽伏見の戦いでは、幕府陸軍・歩兵差図役頭取と言う指揮官を務め、会津に逃れると、松平容保に謁見しています。
そして、旧幕臣で衝鋒隊(しょうほうたい)を結成し、越後方面で新政府軍に抵抗を続けました。
しかし、会津藩が降伏すると他の旧幕府軍同様、仙台から箱館へ向かっています。
この兄と同じく、高松凌雲も幕府への恩義に従い、榎本武揚開陽丸に乗船しました。
仙台では、兄・古屋佐久左衛門の衝鉾隊、大鳥圭介の伝習隊、土方歳三の新撰組、会津藩兵なども合流し、蝦夷・五稜郭へ渡っています。

五稜郭

そして、榎本武揚総裁から箱館病院の院長を要請されると、箱館戦争では、旧幕府軍の医師として活躍しました。
砲撃を受けて重傷を負った兄・古屋佐久左衛門も病院に収容されて、高松凌雲が治療にあたっています。
ただし、パリ留学にて学んだ「誰でも治療する」と言う精神に則り、戦闘力を失った傷病兵を、高松凌雲は敵・味方、関係なく負傷者の手当てをしました。
この日本で初めての赤十字の医療活動と言える行動が、新政府軍の黒田清隆に評価され、旧幕府軍との和平交渉を高松凌雲が仲介することになり、明治2年(1869年)5月18日、五稜郭は開城し降伏した次第です。
降伏した翌日から、高松凌雲(33歳)は、官軍の「大病院」にて、引き続き、両軍の傷病兵を治療しました。
しかし、兄・古屋佐久左衛門は、高松凌雲による治療の甲斐無く、約1ヶ月後の6月14日に死去しています。享年37。



8月になると、重症患者を東京の病院に移送するため、高松凌雲などの軍医が付き添いますが、役目が終わると、「賊徒の医師」として、徳島藩預かりとなりました。
徳島では、貧しい食事で栄養失調となり、後年まで悩まされるリューマチを患っています。
4ヶ月後、明治3年2月に釈放されると、徳川慶喜の静岡藩から使者が来て、東京で水戸家に仕えるようになりました。
ただし、水戸家の仕事をする必要はなく、医者として開業しても良いと言う好条件だったようです。

こうして、明治3年11月11日、浅草新片町にて医院を開業しました。
新政府からも出仕要請がたくさん来たようですが、全て断って、町医者として「神の家」の精神を実践したようです。

明治10年2月、西南戦争になると、元佐賀藩士で元老院議官になっていた佐野常民から、熊本洋学校に設立した博愛社(はくあいしゃ)と言う、赤十字精神に基づく病院の設立に協力するよう頼まれます。
しかし、中立であるべき赤十字病院を、軍が設立することに納得できず、断るも、医師としては、博愛社病院を訪れて傷病兵の治療を行っています。

東京に戻ると、明治10年11月、徳川家から借りた寛永寺所有の土地に「鶯渓病院」建設しました。
鶯渓病院では、内科・外科・婦人科・小児科がありました。
貧しい人々を無料で診る会として「同愛会」を設立すると「施療券」を役所・地主などに配って、それを受け取った貧民に関しては、無料で診察すると言う事業で展開しました。
財政は苦しかったようですが、薬代などは「同愛会」に賛同してくれた社員医師らの寄付、役所からの補助金などで賄われ、なんとか存続でき、約100万人の無料診察を行ったと言われます。

日本における救護事業で先駆者となった高松凌雲ですが、大正5年(1916年)10月12日、肺結核により、東京の自邸にて死去。享年81。



2021年NHK大河ドラマ「青天を衝け」では、俳優の細田善彦さんが、高松凌雲を演じられます。

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高田哲哉日本の歴史研究家

投稿者プロフィール

(株)TOLEDO、高田哲哉と申します。
20年以上、歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して史跡も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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