緒方洪庵 幕末の予防医学を大きく進歩された功労者


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 1810年7月14日午前5時~6時頃、備中国足守藩士・緒方瀬左衛門(佐伯瀬左衛門惟因)の3男として足守(現・岡山県岡山市北区足守)にて生まれた。幼名は章。
 父は33俵4人扶持の下級藩士。
 母は石原氏の娘で、名はキョウ。

 生家は、足守の町並みの東北端、足守川と宇野山にはさまれた小高い場所にあった。
 兄・佐伯馬之助と、1人の姉を見て育った末子で3男だったが、一番上の兄は早世していた。

 8歳のとき天然痘を患ったが無事に回復している。
 16歳で元服し、始めはて田上之助惟彰と名乗った。
 この田上姓は佐伯家の別名。

 1825年、父が大坂蔵屋敷の購入交渉の為、大阪に出向く事となり、緒方洪庵も同行。購入完了すると、8月に足守に戻った。
 10月5日、父が足守藩大阪留守居役となり、緒方洪庵も再び大坂へ出た。そして、武士の子として文武の修行に励んだが、病弱であったこともあり、医学の道に進む決心をする。
 一旦、父と共に帰藩して、中天遊入学の許可を藩から得ると、1人で大阪に赴き、中天游の私塾「思々斎塾」にて4年間、蘭学、特に医学を学んだ。この時、翻訳書のほとんどを読破したと言う。

 22歳の時、天游の勧めで1831年2月、江戸へ出ると蘭学医の坪井信道(37歳)による安懐堂塾に入門し、オランダ語や医学を学んだ。
 この時の塾頭は長州藩・青木周弼で、まちに川本幸民、広瀬元恭も入門している。
 また、宇田川玄真からも学んで箕作阮甫と交流した他、緒方洪庵は、安懐堂塾でローゼ著の人体生理学書を日本語に翻訳して「人身窮理学小解」を発行。
 しかし、緒方洪庵の生活は困窮しており、塾の玄関番のかたわら義眼を作成したり按摩をして学資を稼いでおり、見兼ねた坪井信道は自分が着ている衣服を脱いで与えたほどであったと言う。
 その反面、約10冊の翻訳書を仕上げるなど、大いに勉学の方は進んだと言う。

 1835年2月、足守に帰国した直後の3月24日、恩師・中天遊が死去したとの知らせを受けて、4月2日に再び大坂に出ると、恩に報いるために思々斎塾にて教鞭をとった。

 1836年、思々斎塾の先輩医師・億川百記より資金援助を得て、中天遊の子・中 耕介を伴い長崎へ遊学。オランダ人医師ニーマンのもとで医学を学んだ。
 この頃から先祖にゆかりのある緒方姓に戻して緒方洪庵と名乗った模様。

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大阪で適塾を開く

 1838年春、大坂に戻ると、瓦町(現・大阪市中央区瓦町)で医業を開いた。
 同時に蘭学塾「適々斎塾(適塾)」を主催。この名称は、恩師の思々斎塾の名からあやかったのは言うまでもない。
 同年、緒方洪庵(29歳)は、天游門下の先輩・億川百記の娘・八重(17歳)と結婚。のち6男7女をもうけた。
 妻・八重は面倒見がよく、塾生からも慕われたと言う。

 開業2年目には、早くも浪花医者番付で東の前頭四枚目となり、その後、最高位の大関となったが、多忙な中でも毎年1回は足守に帰省した。

 1845年、入門者も多く手狭となった為、過書町(現・大阪市中央区北浜三丁目)の商家を購入して適塾を移転。
 この適塾では、日本最初の病理学書「病学通論」や、コレラの病理治療予防法「虎狼痢治準」、ドイツの著名な医学者フーフェランドの「扶氏経験遺訓」などを翻訳している。
 適塾では大村益次郎福沢諭吉、佐野常民、橋本左内大鳥圭介、長与専斎、高松凌雲らを輩出したが、その総数は1000人に及んだとされる。

 京に赴いて佐賀藩が輸入した種痘を手に入れると、1849年11月7日、古手町(現・大阪市中央区道修町)に「除痘館」を開いて、牛痘種痘法による切痘を開始した。
 1850年、郷里の足守藩主より要請があり「足守除痘館」を開き3ヶ月に渡り切痘を実施。

 牛痘種痘は「牛になる」などの迷信が広まり、希望者からは治療費を取らず試してもらったと言う。
 ワクチンは関東から九州までの186箇所の分苗所で維持しながら治療。

 1856年に福沢諭吉が腸チフスを患った際には、中津藩の大阪蔵屋敷まで出向いて治療にも当たっている。、

 この頃、天然痘ワクチンは、粗悪な牛痘種痘を行う者も現れた為、緒方洪庵の除痘館のみ、公認の牛痘種痘法治療所として認めてもらえるよう奔走。

 1858年4月24日、緒方洪庵の運動の甲斐も有り、徳川幕府が公認し、天然痘予防の牛痘種痘を免許制とした。
 この年は日本でコレラ (コロリ) が大流行し、多くの人の人命が失われていたが、緒方洪庵は「虎狼痢治準」(ころり)を著して、多くの医者に無料配布し、日本医学の近代化に努めた。

 緒方洪庵の名は大変高まり、徳川幕府は再三に要請し、1862年、幕府の奥医師(将軍やその家族を診察する医師)に就任し、上位の医師である「法眼」にも叙せられた。
 また、幕府の機関である西洋医学所の頭取も任ぜられている。

 1862年、幕府の度重なる要請により、奥医師兼西洋医学所頭取として江戸に出仕する。歩兵屯所付医師を選出するよう指示を受け、手塚良仙ら7名を推薦した。12月26日「法眼」に叙せられる。

 しかし、1863年6月11日、江戸の医学所頭取役宅で突然喀血。窒息した事により死去した。享年54。

 江戸城西の丸火災のとき和宮の避難に同行し、長時間炎天下にいたことが死の要因になったとも言われている。

 遺骸は江戸駒込高林寺に葬られた。遺髪は大坂天満竜海寺に葬られている。

 大阪適塾の建物は現存し「旧緒方洪庵住宅」として重要文化財に指定されている。

 

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