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久坂玄機(くさかげんき)は、1820年生まれ。
長門国萩平安古石屋町(現・山口県萩市)の長州藩医・久坂良迪の長男として生まれた。名は真(まこと)、静。天籟と号した。
母は久坂富子。
父・久坂良迪(りょうてき)は藩医だったが、家禄は25俵しかなく貧しい生活だったと言う。
しかし、勉学に励み、医師なる為、長崎で蘭学を学んだ。
20歳年下の弟に久坂玄瑞がいるが、2人は藩医の中でも大変優秀で「坂家の連壁(ばんけのれんぺき)」と称せられた。
そんな優秀な兄を見て育った久坂玄瑞は、この兄に思想、行動と大きく影響されたのであろう。
1847年6月、緒方洪庵の適塾に客分として在籍。
1848年3月、適塾の塾頭となった。
しかし、帰藩の命が下り、1849年、好生館の都講に任ぜられている。
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長州藩内では、初の藩内種痘実施に際しては、青木周弼・赤川玄悦とともにその主任となり、種痘を実施した。
この間に『治痘新局』を訳述したとみられ、この種痘書によって長州藩では天然痘の流行を防ぐことができたとされる。
1850年6月、好生館の書物方を兼任すると、最年少(31歳)で本道科教授に就任。
海外事情にも通じており、西洋軍事学に関する藩内の評価も高く、藩命により「演砲法律」「銃隊指揮令」「新撰海軍砲術論」「和蘭陀紀略内編」「抜太抜亜志」「新訳小史」など、多くの洋書を翻訳した。
このような久坂玄機の西洋学問研究は、弟の久坂玄瑞に相当の影響と感化を与えた言って過言ではないだろう。
そして、海防については、幾度も藩政府から意見具申を求められ、病床にありながらも、藩主・毛利敬親に上書建白する事となった。
久坂玄機は藩主から海防策の立案を命じられ、病床の中、徹夜で意見書を執筆した無理がたたって、筆をもったまま絶命したと伝わる。
1854年2月27日に逝去。享年35。
その急務だった海防は、弟の久坂玄瑞が引き継いで行く事となった。
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