スポンサーリンク
藤田小四郎とは
藤田小四郎(ふじた-こしろう)は、幕末の水戸藩士・藤田東湖の4男として1842年に生まれました。
母は、妾である、土岐さき です。
父・藤田東湖は、水戸藩主・徳川斉昭の側用人として、会沢正志斎らと藩政改革にあたっていました。
しかし、1844年に、徳川斉昭が幕命により隠居謹慎となったため、父・藤田東湖も失脚し、幽閉されます。
そのためか、同じ頃、母・土岐さきは、藤田家を去っています。
藤田家を出た原因は、東照宮の例祭にて、土岐さきが、妾でありながら、正妻・藤田里子と、同じ帯を仕立てて出席したからともされ、里子によって、家を出されたともあります。
しかし、藤田小四郎は藤田家で養育されたようで、父の影響を受けて、尊皇攘夷の思想を持つようになりました。
1852年、父の謹慎が解けましたが、1855年、安政の大地震にて、小石川後楽園近くの江戸藩邸にいた父・藤田東湖は死去しました。享年50。
スポンサーリンク
なお、藤田小四郎は関与していないようですが、水戸藩浪士らは桜田門外で井伊大老を殺害したり、イギリス公使館を襲撃したり、老中・安藤信正も襲うなど、過激化していきました。
1863年3月、将軍・徳川家茂と水戸藩主・徳川慶篤が上洛した際に、21歳の藤田小四郎も随行して、長州藩士の桂小五郎・久坂玄瑞らと交流しています。
桂小五郎と初めて対面した際には「あなたが、かの東湖先生のご子息か」と、感慨深げに語りかけられたとあります。
そして、水戸藩の尊皇攘夷において、過激派の首領格と見られるようになりました。
その後、将軍後見職・一橋慶喜に従って江戸に戻りますが、京では、八月十八日の政変にて、長州藩の勢力が一掃されました。
そのため、諸藩の尊王攘夷活動は、長州藩に代わって水戸藩が頼みとになり、水戸には浪士らが集まる結果となっています。
天狗党
このような状況の中、藤田小四郎は長州藩と挙兵計画を考え、遊説や金策に奔走しました。
そのため、武蔵・血洗島村の尊攘派豪農であった渋沢栄一とも、江戸にて2回面会しています。
ただし、渋沢栄一は、天狗党への参加を周辺から止められています。
1864年、江戸幕府の方針に反して、横浜港を開港しようとした一橋慶喜は、水戸藩士の原市之進・梅沢孫太郎を家臣に登用して、武田耕雲斎ら約300名もの水戸藩士を上京させています。
あくまでも鎖国して尊王攘夷との考えの藤田小四郎は、幕府に即時鎖港を要求するため、この最中の1864年3月27日、62名の同志と筑波山の中禅寺(中尊寺) (現在は廃寺、筑波山神社付近) にて挙兵しました。
天狗党の乱(てんぐとうのらん)と言います。
なお、藤田小四郎はまだ23歳の若さだったため、水戸町奉行・田丸稲之衛門が盟主となっています。
天狗党とは、藤田らが自ら命名した訳ではなく、水戸藩内で尊王攘夷派は「天狗」と日頃呼ばれていたことから、彼らは天狗党と言われたと言う事になります。
水戸藩主・徳川慶篤は、田丸稲之衛門の兄・山国兵部を派遣して、矛先を収めるように説得させましたが、逆に山国兵部も天狗党に加わっています。
その後、筑波・普門寺で挙兵した田中愿蔵など、領内の各地から、続々と浪士が参じましたが、中には農民も多数いました。
スポンサーリンク
最盛期には約1400人となり、筑波山で挙兵した一団は、筑波勢・波山勢などと呼ばれました。
天狗党は、攘夷の実行は、東照宮(徳川家康)の遺訓であると論し、まずは、日光東照宮を占領するべく軍勢を進めています。
しかし、日光奉行・小倉正義の依頼を受けた、近隣の各藩が兵を出したため、日光に入れずにいたところ、水戸では市川弘美ら保守派が「諸生党」を結成して、藩内での過激派を排除する姿勢を見せました。
そのため、藤田小四郎ら筑波勢700は筑波山戻りますが、軍資金不足が問題となりました。
こうして、筑波勢は「攘夷」を口実に、府中・筑波・柿岡などの役人・富農・商人らから金品を徴発したため、天狗党の評判は悪かったようです。
特に別動隊として動いていた、田中愿蔵(たなか-げんぞう)の田中隊は、栃木宿にて3万両を要求するも、応じないと、町人を差し殺したうえ、押し入って金品を強奪し、宿場町を放火しています。
また、真鍋宿でも略奪・放火を行ったため、天狗党は暴徒集団と認識されるようになりました。
7月になると、京では「禁門の変」が勃発し、孝明天皇は長州藩を「朝敵」としたことや、長州征伐が終るまでは、攘夷は後回しの旨を示します。
そのため、鎖港問題を掲げていた筑波勢は挙兵の大義名分を失い、水戸藩における過激派と保守派の内部抗争として、捉えられるようになりました。
江戸幕府は、常陸国・下野国の諸藩に命じたほか、幕府陸軍なども動員して、天狗党鎮圧に動き、筑波勢と戦闘が始まっています。
士気が低い幕府勢は、天狗党によって撃退されましたが、市川弘美ら諸生党600は、水戸藩を掌握し、筑波勢の屋敷に放火し、家人を投獄・銃殺するなどの報復を行い、武田耕雲斎も失脚させられています。
天狗党は、新たな目標として、京都にいた徳川慶喜を、水戸藩主に据えようと考え、武田耕雲斎に頼み、天狗党の首領として迎えました。
武田耕雲斎は、初め拒絶していましたが、藤田小四郎の熱望に負けて、死を覚悟して参加したと言います。
そして、天狗党約800名を率いて、中山道を西へと進んで、各地で、諸藩を撃破しながら、40日、約1000kmの行軍の末、敦賀まで進軍しました。
この間、略奪などの記録はなく、武田耕雲斎がきちんと統制も図った模様です。
しかし、敦賀へ討伐にきた幕府軍の総大将が、頼りの徳川慶喜だったことから、天狗党は降伏しています。
藤田小四郎ら824名は加賀藩に捕縛され、幕府に引き渡されて8ヶ月後の1865年2月23日、敦賀の来迎寺にて処刑されました。享年24。
武田耕雲斎も同じく処刑され、享年63。
スポンサーリンク
天狗党で斬首された者は合計353名ですが、武田耕雲斎の妻子ら11名も水戸などで斬首となっています。
なお、全員が処刑される予定でしたが、過酷な処置に諸藩・世間から批判が出たため、小浜藩が丁重に預かっていた約110名は、准藩士として罪を許されています。
その後、衣服や金子などを与えられて、佐柿国吉城下の准藩士屋敷に移されると、1868年(明治元年)1月、水戸藩への帰藩を許されています。
2021年のNHK大河ドラマ「青天を衝け」では、藤田小四郎を、藤原季節(ふじわら-きせつ)さんが、演じられます。
・筑波山神社 便利な駐車場や参拝みどころ
・田中愿蔵 天狗党・筑波山の麓にある普門寺から出陣
・武田耕雲斎の解説 天狗党を率いた水戸の改革派
・徳川斉昭 徳川御三家である水戸藩の9代藩主で幕末に大きく関わる
・幕末動乱の元凶は水戸学に有り
・藤田東湖の解説 水戸学の改革派
・原市之進の解説~幕末の高名な水戸藩士で徳川慶喜の参謀
・徳川斉昭「攘夷の巨魁」として生きた幕末の名君と水戸藩
・徳川慶喜(一橋慶喜)徳川家最後の征夷大将軍 その人柄と評価は?
スポンサーリンク
コメント
トラックバックは利用できません。
コメント (0)
この記事へのコメントはありません。