岡田以蔵ってどんな人? 幕末 伝説の人斬り

岡田以蔵



岡田以蔵(おかだ-いぞう)は1838年に土佐藩郷士の土佐郡江ノ口村の足軽の長男として生まれました。
岡田以蔵の父は郷士株を土佐藩から購入する事で武士の身分を取得し、郷士となったのです。
当事の郷士は大坂夏の陣・冬の陣の敗者である長曽我部氏の流れを汲む家系。
下級武士の身分で、藩主からの給料だけでは生活出来ず生計を立てる為に農業や漁業を営む家系。
などが郷士の身分の家系でした。
現代では幕末の四大人斬りの一人だったと伝えられ、マンガ「るろうに 剣心」のモデルになったとも言われている人物です。
土佐勤王党に加盟して武市瑞山の命により暗殺を行い、天誅の名人だったと言われています。



人斬り以蔵の誕生

司馬遼太郎の代表的な小説の中に「人斬り以蔵」という作品があります。
人斬り以蔵と言われるぐらいですので当然、剣の達人だあったわけです。
岡田以蔵は武市瑞山(半平太)の元で、剣術の修行に励みます。
武市半平太と言えば、あの坂本竜馬とも親交のあった人物です。
その後、江戸に出た岡田以蔵は鏡心明智流の名門である桜井道場に入門して、中伝を得ました。
武市半平太と中国・九州地方で武術修行した岡田以蔵はその後、土佐藩に帰国して土佐勤王党に加盟したのです。
そして人斬り以蔵は誕生しました。

天誅

人斬り以蔵が天誅の名人と言われていた事は史実から明らかになっています。
ここではピックアップして岡田以蔵が「天誅の名人」と言われたいきさつをご紹介します。

・井上佐市郎(文久2年8月2日)
公武合体派の吉田東洋が尊皇攘夷派の土佐勤王党の志士である那須信吾・大石団蔵・安岡嘉助に暗殺されました。
事件を調べていた土佐藩下目付けの井上佐市郎を暗殺した中に岡田以蔵がいました。
その他には久松喜代馬・岡本八之助・森田金三郎がいました。
この暗殺事件が人斬り以蔵と後に言われるきっかけとなりました。

・本間精一郎(文久2年閏8月20日)
越後国出身でどこの藩にも籍を置かなかった本間精一郎は敵も多く、幕府の内通者や密偵ではないかと周囲から疑われていました。
そしてついに本間精一郎は岡田以蔵の他、平井収二郎・島村衛吉・松山深蔵・小畑孫三郎・弘瀬健太・田辺豪次郎・田中新兵衛に暗殺されたのでした。

岡田以蔵の最期

そんな中、土佐勤王党は1863年(文久3年)8月18日の政変後に状況が一変します。
山内容堂を中心とする土佐勤王党弾圧が活発となる事で武市半平太が捕縛されてしまったのです。
さらに、岡田以蔵その人は潜伏先の京で強盗の罪で捕らえられて土佐藩へと送還されてしまいます。
岡田以蔵をはじめとする土佐勤王党の志士たちは取り調べの中で拷問受ける事になりました。



武市半平太はそこで自白を恐れて岡田以蔵を裏切り、岡田以蔵の毒殺を試みましたが失敗に終わります。
しかし、それによって武市半平太の裏切りを知った岡田以蔵を自白して武市半平太は切腹に追い込まれました。
そして、岡田以蔵その人は1865年(慶応元年)に打ち首となり、晒し首にされました。
28歳の生涯を閉じました。

(寄稿)土佐武士の子孫

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土佐武士の子孫歴史ライター

投稿者プロフィール

子供時代、小学校・中学校・高校と日本史が好きで成績も全国模試で上位でした。
>今は当事程の知識ではありませんが、思い出しながら楽しんでもらえる
>記事を書かせて頂いています。

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