おりょう 楢崎龍 お龍 (坂本龍馬の妻) 坂本龍馬との出会いと寺田屋事件・新婚旅行


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楢崎龍(ならさき-りょう)、おりょう、お龍とも呼ばれる。坂本龍馬の妻。

1841年6月6日、医師である楢崎将作の長女として生まれた。母は重野貞(または夏)。
楢崎家は元は長州藩士であったが、楢崎将作は青蓮院宮(のちの中川宮朝彦親王)にも仕えた医者で、京都で内科・外科医を営んでいた。
楢崎将作は尊王の志士らとも交流があった為、1858年、安政の大獄では連座して捕えられたが、翌年には釈放されている。
楢崎将作は若い志士が頼ってくると金品を与え、親切に面倒をみたので、屋敷には絶えず若者が出入りし、数人の食客が滞在していたようだ。
坂本龍馬も1864年5月ごろ楢崎将作と親しくなったとされ、楢崎将作の長女である龍を一目見て相思相愛の仲になったという。
楢崎家はお龍を含め女3人・男2人の5人兄弟で、裕福な家庭であったが、1862年1月29日に楢崎将作が亡くなると、家屋敷も処分するなど楢崎家は次第に困窮生活となり、20歳前後だった長女・お龍は、母や兄弟を養う為に、神奈川宿の旅館・田中家に奉公に出て家計を支えた。
しかし、これも尽き果て遂に家族は離散して奉公に出たと言う。
1863年に天誅組が挙兵失敗した際の残党が原屋五平の隠居所を借り、水口加藤家人住所の表札でしばらく潜んでいたが、男所帯で不便なため、留守番の女を雇いたいと出入りの米商人に頼んだところ、お龍の母(楢崎貞、楢崎夏))が紹介された。
この家には才谷梅太郎こと坂本龍馬や、石川誠之助こと中岡慎太郎らもいて、お龍は七条新地の扇岩と言う旅籠の手伝をしていたが、お龍が母を訪ねてくるうちに親しくなり、坂本龍馬はお龍の自由奔放なところを気に入り愛人にしたと考えられる。
その後、坂本龍馬が世話になっている伏見の寺田屋にお龍を奉公させることにし、寺田屋の女将・お登勢はお龍の名をお春と呼ばせ、自分の養女分として、坂本龍馬付の女中格にした。

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1866年1月21日に薩長同盟が成立。大きな活躍をした坂本龍馬だったが、1月23日、寺田屋に宿泊していた坂本龍馬が伏見奉行配下の捕り方(新撰組)に襲われる事件が起こる、いわゆる寺田屋事件。
風呂に入っていたお龍が、襲撃を察知し、浴衣をまとうだけで飛び出して坂本龍馬の部屋に危機を知らせたと言われている。
坂本龍馬は主に銃で反撃し左手の親指を負傷。三吉慎蔵の働きもあり危うく脱出に成功し、お龍は伏見の薩摩藩邸に走り救援を求めた。
1月29日に坂本龍馬とお龍は三吉慎蔵、吉井幸輔に護衛され京都の薩摩藩邸に移った。

1866年1月23日、寺小屋事件の際、京の薩摩藩邸にて逃れたて、難をしのいだ坂本龍馬とお龍の2人は、まもなく中岡慎太郎の仲人(西郷隆盛説も有)で結婚した。
この時、龍馬32歳、おりょう26歳。
そして、西郷の勧めもあって薩摩(鹿児島)へ湯治に出かける。
1866年3月4日に薩摩藩船「三邦丸」が大坂を出港した。
この船には西郷吉之助(西郷隆盛)、坂本龍馬、中岡慎太郎、三吉慎蔵、そして、お龍も乗船していた。
これが日本初の新婚旅行だといわれているが、最初の新婚旅行に関しては坂本龍馬の薩摩での滞在先でもあった薩摩藩家老・小松帯刀であったとの説もあり。

3月8日に「三邦丸」は長崎へ入港。
そして、坂本龍馬とおりょうは、薩摩藩士・吉井幸輔の案内で再び船に乗り、3月10日に鹿児島・天保山(てんぽざん)に到着。
吉井幸輔の屋敷に身を寄せたあと、3月16日に天保山から、船にて錦江湾(きんこうわん)を渡り、霧島へ向かったのですが、これが新婚旅行と言われている由縁である。
1866年3月16日に日当山温泉に宿泊。
翌17日には塩浸温泉に移動して、18日間と、この新婚旅行で一番長い逗留をして、刀傷を癒した。

現在でも坂本龍馬らが入浴したと言われる小さな湯船が残されている。

坂本龍馬は川で魚釣りをしたり、鳥をピストルで撃ったとも伝わる他、高千穂峰への登山を楽しんだとある。

塩浸温泉~坂本龍馬とお龍が18日間逗留した新婚旅行先の日帰り温泉

傷を癒し、4月12日には鹿児島城下に入ったが、この前後に案内役の吉井幸輔と共に、小松帯刀が湯治している栄之尾温泉(霧島ホテル)にも訪問している。
そして、6月2日に坂本龍馬はお龍と「桜島丸」で鹿児島を出港し、6月4日に坂本龍馬は長崎にて小曽根邸にお龍を預けた。 

その後、坂本龍馬はお龍を連れて亀山社中の活動の拠点があった下関の豪商・伊藤助太夫のもとに1867年2月10日に到着。お龍は下関に滞在する間、坂本龍馬は海援隊を創設するなど忙しく動いており、1867年9月20日、坂本龍馬は伊藤俊輔に会うため下関を訪れ、お龍が、坂本龍馬に会った最後となった。
そして、11月15日、近江屋で坂本龍馬は岡慎太郎と共に絶命している。
坂本龍馬が暗殺されたときもお龍は下関にいた為、難を逃れたが、暗殺当夜には「血まみれになり、刀を下げてしょんぼりとした龍馬が枕もとに立つ」夢を見たとも言われている。
龍馬暗殺の知らせが12月2日に下関の伊藤助太夫宅に届くと、お龍は気丈に振舞っていたが、法事を済ませたあとは、髪を切り落として仏前に供え、号泣したという。
その後、坂本龍馬と親交のあった三吉慎蔵らの世話になっていたが、海援隊が京都で埋葬した墓参りのため、京に向かい、近江屋にも宿泊して、坂本龍馬の霊を弔った。

1868年3月には、土佐の坂本龍馬の実家に迎えられたが、生来の気の強さからか、坂本家の家族と馴染めなかったようで、1年ほどで京都に戻っている。
「どちらかといえば小形(小柄)の身体に渋好みの衣服がぴったり合って、細面の瓜実顔は色あくまで白く、全く典型的の京美人であった」と土佐に記録が残っている。
京に帰ったあと、坂本龍馬の墓があった東山の麓に室屋を営んだが、生活を維持できず、西郷隆盛や海援隊士を頼り、1872年頃に坂本龍馬の旧友を頼って上京。
東京では水戸藩出身・陸援隊の香川敬三らが、持ち回りでお龍の面倒をみたが、晩年に「優しくしてくれたのは西郷隆盛だけだった」とも発言している。
また、自立するため旅館の仲居などをして転々としながら横須賀へ流れ、30歳のとき旧知の商人・西村松兵衛と再婚して横須賀に住んだ。再婚時の媒酌人は旧海援隊士・安岡金馬。



晩年は大酒を飲み、酔うと口癖のように「私は龍馬の妻だった」と言っていたようだ。
坂本龍馬との間に子はなかったが、1874年、34歳の時に西村松兵衛との間に男児を出産してその後入籍したが、その息子は1897年に17歳で死去。晩年は貧しいながら穏やかに暮らしたとされている。
1906年(明治38年)、お龍は横須賀にて66歳で死去した。
のち、西村松兵衛はお龍の分骨を密かに京都東山の坂本龍馬墓に埋葬したと伝わる。

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