大隈重信~日本初の政党内閣による総理大臣と早稲田大学




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大隈重信(おおくましげのぶ)は、1838年に佐賀藩士・大隈信保と、母・三井子の長男として、佐賀城下会所小路(佐賀市水ヶ江)で生まれた。
父は砲術長を務める300石の上士であり、7歳の時から佐賀藩の藩校・弘道館で学んだが、朱子学や葉隠に基づく儒教教育に反発し、1854年、藩校の改革を訴えたために1855年には退学処分となった。
この頃、国学を学んでいた枝吉神陽が、尊皇派の義祭同盟を結成すると、江藤新平・副島種臣・大木喬任・島義勇らとともに参加。



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1856年には、佐賀藩蘭学寮に入ると西欧の学問に接し、長崎にて英学を学んだ。
長崎ではアメリカ人宣教師・フルベッキに出会い、世界に眼を向けた政治家になることを決心。

1863年、下関外国船砲撃では、長州藩を支援しようと企て、また1864年の長州征討では、佐賀藩主・鍋島直正に幕府と長州の調停をするように説いたがうまくはいかなかった。

1865年、長崎に佐賀藩校英学塾「致遠館」を設立。副島種臣と共に指導にあたった一方、フルベッキから英語を学び、京都へも往来し、尊王派として活動した。

1867年、将軍・徳川慶喜に政権返還を勧告しようと、副島種臣と共に脱藩して上京したが、捕らえられ1ヶ月の謹慎処分を受けている。

明治新政府が樹立すると、 明治1年(1868年)年3月、薩摩の小松帯刀の推挙もあり、徴士参与職、外国事務局判事として長崎に赴任。
キリスト教徒処分では英国公使パークスとの交渉で勇名をはせ、明治2年には外国官副知事に抜擢された。また、三枝綾子と再婚。
会計官副知事、次いで大蔵大輔としても、鉄道・電信の建設や工部省の開設など、近代国家の創生に尽力した。

明治3年には参議、明治6年には大蔵卿に就任し、明治14年10月の政変で辞任するまで、地租改正や秩禄処分、殖産興業政策など推進し「大隈財政」展開すると資本主義の基礎を築いた。
このとき岩崎弥太郎の三菱汽船を援助し、三菱財閥とも密接な関係を築いている。

明治14年3月、国会開設奏議を提出すると、政党内閣制と国会の即時開設を主張。
さらに開拓使官有物払下げに反対したため、薩長派と衝突することとなり、10月に政府を追われた(明治14年政変)。

翌明治15年4月、小野梓とともに立憲改進党を結成すると尾崎行雄、犬養毅、矢野文雄らも参加し、総理(党首)に就任。
また同志社大学の創立者である新島襄とも親交し、東京専門学校(早稲田大学)を創立すると「学の独立」をうたって青年教育にも当たった。

明治20年、伯爵



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明治21年、伊藤博文は大隈重信の外交手腕を買い、政敵にも関わらず外務大臣の要請を受け受諾。
続いた黒田内閣において、条約改正を担当したが反対派の反抗にあい、明治22年10月、玄洋社員による爆弾の襲撃を受けて、右脚切断の重傷を負い、外務大臣を辞職した。

明治31年、板垣退助と共に憲政党を結成すると、日本史上最初の政党内閣を組織し、薩長派閥以外から初めて内閣総理大臣に就任した。
しかし、党内抗争や薩長派の妨害で、僅か4カ月で総辞職。

この頃、成瀬仁蔵が説く「女性の為の高等教育」を実現しようした広岡浅子(NHK連続テレビ小説・あさが来たでは、白岡あさ)より、女子大設立のための寄付金に関する相談も受けている。

明治40年に政界を引退すると、早稲田大学総長となって文明協会を創立し、ヨーロッパの名著を翻訳出版するなど、多数の著書を刊行。南極探検隊への支援も行い、文化運動に励んだ。

明治41年、日本最古の始球式として、大リーグ選抜チームと早稲田大学野球部の試合にて、大隈重信がストライクゾーンを大きく外したとある。
この時、早稲田の1番打者が敬意を表すため、ボールにしてはいけないと空振りしたのが、今でも「空振りする」と言う慣例になったと伝わる。

大正初年に政擁護運動が起こると政界に復帰。
大正3年(1914年)4月には、第2次大隈内閣を組閣し、第1次世界大戦が起こると日本は日英同盟に基づいてドイツに宣戦布告。
ドイツが権益を持つ青島や南洋諸島を攻略した。

しかし、内相・大浦兼武の汚職事件(大浦事件)が起こると、国民の信頼を失い、大正5年10月に内閣総辞職。
以後は、政界から完全に引退したが、退任時の年齢は満78歳6か月で、これは歴代総理大臣の中でも最高齢の記録となっている。

大正11年(1922年)1月10日に胆石症のため早稲田で死去。85歳だった。



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明治3年頃の事である。
日本最初の鉄道が新橋~横浜間に建設された際、そのゲージ(軌間)を1067mmと言う狭軌の判断をしたのは大隈重信である。
これは、イギリス人技師エドモンド・モレルの説明を聞いて決めた物であったが、軌間というものを当時は理解しておらず、狭い土地が多い日本の鉄道なら早期建設にもなる狭軌で十分と当時は思ってしまったと「我輩の一世一代の失策」と後年語っている。
まぁ、最も新政府も予算は困窮しており、アメリカなどに借金のお願いをしている時期である為、仕方なかったとも言えるだろう。
何をともあれ、長年鎖国していた極東の島国「日本」が、明治維新から僅か数年で自前の鉄道を完成したことには、欧米諸国も驚いたと言う。

2015年後期のNHK連続テレビ小説「あさが来た」では、高橋英樹さんが大隈重信を演じられた。
2019年NHK大河ドラマ「いだてん」では、大隈重信を平泉成さんが演じた。

尾崎行雄 衆議院議員を63年務めた憲政の神様
あさが来た・広岡浅子の生涯はこちら
成瀬仁蔵の偉業に関してはこちら
日本の「鉄道の父」井上勝(野村弥吉)に関してはこちら
新橋駅のSL広場 日本最初の鉄道は海の上を通っていた



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高田哲哉日本の歴史研究家

投稿者プロフィール

高田哲哉と申します。
20年以上、歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して史跡も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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コメント

    • BIG-BIRD
    • 2020年 1月 28日

    西郷隆盛や大久保利通と比べると、かなり短い文章となっているのが残念である。というのも、私は、高校までを佐賀で暮らし、叔母の家が大隈重信公の生家の近くにあり、小さい時に生家にも行ったことがある。
    読んでいて思ったのは、他の人物は幼名の記載があるのに書いていない。逸話なども書いていない。幼名は、八太郎ということがわった。読み進むと、三枝綾子と再婚と書いてある。初婚の相手は誰だろうと、調べた江副杢之進の長女美登という女性で、長女熊子を儲けたと書いてある。子供を儲ける?。儲けると書くことに驚いた。儲けるの右側は、たくわえるの意味で、人偏がついて跡継ぎになる人を備えておく、子供を儲けるとなるそうだ。
    逸話も結構面白いものや、有名な177という番号のいわれなどたくさんあった。
    最後の行に、死因は胆石病とあるが、腹部の癌と委縮腎と説明するものがあった。

    毎度の指摘、①佐賀藩主・鍋島直正をには、鍋島直正にである。②政的とあるが、政敵である。

    今度帰省したら、龍泰寺にお墓参りに行こう。私、早稲田大学の卒業生なのです。


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