尾崎行雄 衆議院議員を63年務めた憲政の神様


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 尾崎行雄(おざきゆきお)は、相模国津久井県又野村(神奈川県相模原市緑区又野)にて、1858年11月20日に生まれた。

 この尾崎家はもともと今川義元の家臣で、戦国時代より以前には伏馬田城を知行していたようだ。

 父・尾崎行正(尾崎彦四郎)は漢方医で、漢学者・藤森弘庵の私塾では桂小五郎(木戸孝允)がら後輩に見られる。

 父・尾崎行正は、戊辰戦争の際に、土佐藩・迅衝隊総督に、武田家ととゆかりある板垣退助が就任すると、旧武田家臣の美正貫一郎が率いる断金隊に参加して会津戦争などを戦い、隊長・美正貫一郎が戦死すると、断金隊の隊長を任された。明治維新後は京都の弾正台と言う警察組織に属している。

 尾崎行雄は、11歳になった明治元年に平田鉄胤の平田塾で学ぶと、明治4年(1871年)には高崎の高崎藩英語学校1期生50人の1人として新井領一郎や内村鑑三らと英語を学んだ。

 その後、明治7年に福沢諭吉の慶應義塾に入るとすぐに塾長となり、明治8年にはキリスト教の洗礼を受けた。
 大鳥圭介の紹介も得て、明治9年(1876年)に工学寮(東京大学工学部)に入学するも退学すると慶應義塾に戻り、三田演説館で演壇に立つなどして明治政府のやり方に反論した。

 そして中退すると文才を認められて、明治12年(1879年)、福澤諭吉の推薦で新潟新聞に入社。のち郵便報知新聞の論説委員となり、大隈重信の立憲改進党の創立に参加。
 後藤象二郎らと欧化主義に反対するなど土佐派と行動した。

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 そして、父が伊勢にて余生を送っていた縁で、明治23年(1890年)の第1回衆議院総選挙では三重選挙区で当選し、以後、昭和27年(1952年)の選挙まで63年に渡り連続25回当選と言う偉業を成し遂げた。
 その間に文部大臣、司法大臣などを歴任。
 明治33年には、伊藤博文の立憲政友会結成に参画して最高幹部となったがのち脱党。
 特に明治36年から明治45年までは東京市長を兼務し、ワシントンDCに桜2000本を送ると、返礼としてハナミズキが日本に贈られるなどアメリカとの交流にも貢献した。

 大正元年(1912年)には、第1次護憲運動にて犬養毅と共に先頭に立ち、桂太郎首相を追求し「憲政の神様」と呼ばれた。

 1930年の満州事変勃発後は、政党政治は困難となり鳩山一郎らと同交会を結成。昭和17年(1942年)、軍部主導の選挙に批判的な立場を取った事で、不敬罪で起訴されるが、1944年に無罪判決が出ている。

 戦後は長老的な存在として活動し、衆議院名誉議員となる。

 昭和29年(1954年)10月6日、直腸ガンによる栄養障害と老衰により、慶應病院にて死去。95歳。
 墓所は鎌倉の円覚寺。

 没後、国会の脇に「尾崎記念館」が建てられた他、相模原市緑区の津久井と、三重の伊勢市に、それぞれ尾崎咢堂記念館がある。

 

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