新井領一郎とは 群馬のルネサンス・日本の近代化に貢献した先人


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 幕末に開国した日本が外貨を獲得するため、重要な輸出品となった「生糸」。
 世界遺産となった富岡製糸場が、群馬に建設されたのは、この群馬では養蚕業、製糸業が盛んだったからだ。

 しかし、明治初期までは、日本人が作った生糸は横浜のアメリカ商人が買い取って輸出していた。
 すなわち、直接日本人が外国と取引して輸出していなかったため、不利益を被っていた。

 そんな折り、日本で初めて生糸の直輸出を成功させたのが今からご紹介する「新井領一郎」である。

 新井領一郎(あらいりょういちろう)は、群馬県勢多郡水沼村(桐生市黒保根村)で富農・星野彌平の子と1855年7月19日に生まれた。

 星野家は、苗字帯刀と給人格待遇を許されるという上野国を代表する豪農であったと言う。

 兄・星野長太郎は水沼製糸所設立者で、元帝国議会衆議院の議員でもある。

 新井領一郎は花輪宿の医師・長谷川元寿の寺子屋や、中山耕雲から学ぶと、1866年、生糸問屋・新井系作の養子となる。

 1868年、戊辰戦争の際には、会津藩鎮圧に向かう官軍に星野彌平ら一族36名が、会津藩を助けたと言う嫌疑を掛けられて捕縛され、無罪を主張するも館林城下まで連れていかけた。
 この時、館林藩、寺島宗則勝海舟らが総督府に要請して星野家一族は釈放されたと言う経緯もある。

 その後、東京にて学んだ後、故郷に戻ると養父・新井系作のもとで生糸・繭の販売を行った。

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 1871年(明治4年)には、高崎藩英語学校1期生50人の1人に選ばれ、内村鑑三や尾崎行雄らと学んでいる。
 その後も勉学に励むと、1874年には開成学校(現東京大学)に入学し英語を学んだ。

 21歳の時、群馬県に楫取素彦が赴任すると、米国商法実習生派遣計画の一員に加わる事ができないかと、兄・星野長太郎と相談している。

 1875年、東京商法講習所(一橋大学)、アメリカ人教師から英語の授業にて簿記を学ぶ。

 そして、1876年(明治9年)、群馬県令・楫取素彦の推薦もあり、佐藤百太郎が計画した米国商法実習生に選ばれると、渡航前に挨拶の為、楫取素彦夫妻を訪ねた。
 この時、楫取寿子(杉寿)から、吉田松陰の形見である「短刀」を渡され、生糸の市場開拓と日本からの直輸出を実現するため、吉田松陰の魂と共にアメリカに渡った。
 この短刀は現在カリフォルニア在住である新井領一郎の子孫に受け継がれている。

 こうして、アメリカの業者と直接生糸販売の契約を結び、外国人居留地を通さずに、日本人として初めて生糸の直輸出を成功・実現させる功績を挙げた。

 その後もアメリカに滞在すると、水沼製糸所の生糸品質向上なども提言するなどして商取引は増加。

 明治13年に一時帰国してからは、アメリカでプレイした「ゴルフ」を新井領一郎は渡米してきた日本人にも勧め、また日本でも広める活動もしたが、その後もほとんどをニューヨークにて高品質な生糸取引の仕事をした。

 明治17年、日本にて内務省官僚・牛場卓蔵の娘・田鶴(18歳)と結婚。
 この田鶴も東洋英和女学校で洋風の教育を受け英語を学んでいた。
 披露宴には楫取素彦や福澤諭吉らも招待されている。

 こうした新井領一郎の尽力などにより、アメリカ市場における日本製の生糸は、品質が高かったヨーロッパ産に肩を並べる50%のシェアに至り、以後は日本からの海運やアメリカでの鉄道輸送も、各社が競争するようになって行った。
 そして、大正初期には、アメリカが世界から輸入した生糸の95%が日本産となるのである。

 生涯で90回、太平洋を横断した新井領一郎は、1939年(昭和14年)4月10日、コネチカット州リバーサイド(Riverside, Old Greenwich)の自宅にて死去。84歳。

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