星野長太郎とは【日本人による日本製生糸の輸出を実現した先駆者】


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 星野長太郎(ほしの-ちょうたろう)は、上野国勢多郡水沼村(桐生市黒保根町)にて星野彌平の子として、1845年2月3日に生まれた。
 生家は江戸時代から代々村役人をつとめてきた苗字帯刀を許される豪農である。

 明治に入ると、若くして岩鼻県(現在の群馬県)役人となり、当時の群馬で盛んだった「養蚕業」のにおける製糸業の重要性と、生糸輸出の将来性に着目し、前橋藩宮人渡洋式器械製糸所にて器械製糸技術を習得。
 また1872年(明治5年)には、私費を投じて、自宅北側に群馬県で2番目の小学校となる水沼小学校を設置した。

 1874年(明治7年)、28歳の星野長太郎は群馬県初となる日本人が建設した民間洋式器械製糸所となる水沼製糸所を開設した。
 当初の動力は水車で、イタリア製繰糸器械全32台が順次稼働され、外国人技師の指導を受けないものであった。のち蒸気機関を導入している。
 また全国から来た士女養成使節でもあったため、製糸場内に士女の夜学校も開設している。

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 海外消費地の絹織物業者などからの苦情や要望にも積極的に対応し、均一な品質の生糸生産のため改善を行い、地方の零細製糸業者を集約したり、組合製糸を立ち上げるなどして生糸の生産改良・供給力向上に尽力したことから、全国の模範的製糸業者として名性も高めた。
 当時、糸は「重さ」で取引された為、品質を確かめる、糸の端っこの方だけは通常の細さでも、中間付近などは重さをかせぐため「太く」すると言う、糸の太さが均一でない粗悪品が多く出回り評判を落とし、価格の下落を招いていたので、まず、その糸の太さを均一にすることで信頼を高めたと言う。
 その結果、明治8年には、官営富岡製糸場の生糸よりも品質が高い優良糸として評価されている。

 1876年(明治9年)、権令に就任した楫取素彦の協力も得て、実弟の新井領一郎をニューヨークに派遣すると、横浜の外国人居留地外商を仲介せずに、日本人として初めて生糸の直輸出を実現し、中間マージン削減に成功。
 村内の座繰り糸の仕上げ工程を共同化して生糸の大量出荷も実現し、全国的な生糸直輸出専門会社である横浜同伸会社にも深く関与するなど、生糸直輸出を拡大させ日本の生糸貿易を著しく発展させ、当時の日本にとって外貨獲得のための最重要な輸出品となった。

 1878年(明治11年)、パリ万国博覧会で一等賞金牌を受賞。
 1878年9月には、新設したばかりの前橋生糸改所に、北陸行幸の途中の明治天皇が宿泊。生糸事業を褒め、右大臣・岩倉具視を通して金100円が下賜されたが、星野長太郎は、恩賜金の全てを工女1200余名に分与している。

 1879年(明治12年)、横浜生糸繭糸共進会にて一等償金100円。
 1880年(明治13年)、メルボルン万国博覧会にて二等褒賞を受賞。
 1881年(明治14年)、第2回内国勧業博覧会で銅牌、有功一等償牌。

 初代の群馬県議会副議長を務め、1906年(明治39年)には勲四等旭日小綬章を受章。
 1908年(明治41年)、星野長太郎は帝国議会衆議院議員を1期務め満期にて退任。
 1908年(明治41年)11月27日、東京市麹町区飯田町の自宅にて死去した。63歳。
 従四位に叙せられたている。

 →弟の新井領一郎はこちら
 →花燃ゆに登場する人物一覧リスト
 →阿久沢権蔵と阿久沢せい【花燃ゆ】鈴木栄太郎と工藤長次郎とは

 

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