風立ちぬ 堀越二郎 ゼロ戦の設計者

堀越二郎は、日本の航空機技術者で零式艦上戦闘機の設計主任として有名。

1903年6月22日生まれで群馬県藤岡市出身。1903年と言えば、ライト兄弟の飛行機が初めて空を飛んだ年だ。
藤岡中学校、第一高等学校、東京帝国大学工学部航空学科と進学し、それぞれ「首席」で卒業している。
就職は、三菱内燃機製造(現在の三菱重工業)に入社。
三菱は支度金四百圓(現在の約100万円相当)を堀越二郎に渡し、航空機の最先端技術を学ばせるため、彼をヨーロッパ、アメリカにと1年半派遣した。

大変几帳面な性格だったようで、自分が乗った客船の食堂のメニューを集めて保管しておく、領収証も一枚一枚保存、布団を敷くときには必ず部屋の壁と平行になるように敷くなど、と言ったエピソードがある。

日本に戻った堀越二郎は、その優秀な設計者ゆえ、この時代には最新の技術が必要とされる「戦闘機」の開発に携わることになった。
日本の航空機はそれまで外国機のコピーと言った感じだったが、時代がそのように堀越二郎を必要としたのであろう。
この当時の日本はどうしてもエンジン出力が弱い。その欠点を、堀越二郎らの航空機設計技術により補ったと言えよう。

堀越二郎が設計主務者として担当した最初の設計機は「7試艦上戦闘機」で進歩的な低翼単葉を採用したが、ライバルの中島飛行機設計機ともども、正式採用はされなかった。 
その後、1935年(昭和10年)に完成した試作機「9試戦闘機」は上昇力など戦闘機に不可欠なもののみに重点をおき、試作1号機は逆ガル型の主翼を設計した。

堀越二郎によるこの9試の設計が基礎となり、のちの三菱九六式艦上戦闘機の設計に於いて日本独自の革新的な設計が施され、日本海軍初の全金属単葉戦闘機が誕生したのだ。
日本はエンジン性能が低いと言う欠点があるなか、その欠点を機体設計で補い、96式艦上戦闘機は固定脚機としては驚異的なスピードである最高速度400km/時を超え、当時の世界水準を超える優秀な戦闘機となった。

しかし、96式艦上戦闘機は航続距離が1200kmと短く、中国内陸部での作戦に支障が出た為、日本海軍は、速度500km以上、高い航続距離、20mm機関砲の重装備と言った厳しい性能を要求した新機種開発に着手。
三菱のライバルだった、中島飛行機は途中で開発を断念するくらい厳しい条件だったが、三菱の堀越二郎技師は3000枚に及ぶ設計図をチェックし、設計主務者として開発に取り組んだ。

その結果、航続距離2222km、最高速度533kmと高い運動性能、20mm機関砲2門の重武装を持ち、太平洋戦争の緒戦では無敵とも言える活躍し、述べ10000機が生産された「零式艦上戦闘機(A6M2b)」が、堀越二郎の手により誕生した。
ちなみに、ゼロ戦の半数以上は、中島飛行機でライセンス生産されている。
このように、堀越二郎は日本の航空機水準を世界一にまで高めた優秀な設計者だ。

堀越二郎は大学での成績がよかったので、三菱内燃機製造株式会社(現・三菱重工)から声がかかったとの事。
あまり知られてないが、当時、三菱は恐慌の影響で業績が悪く、帝大出の優秀な人材を獲得、育成して挽回を図ろうとし、それが堀越を成長させた。
堀越二郎の最も強いこだわりは、機体の美しさと機能を両立させることだ。堀越二郎が考案した、ねじり下げ、沈頭鋲といった技術は、現在でも世界のほとんどの航空機で採用されている。
堀越二郎が(三菱のライバルである)中島飛行機に入っていたら、ゼロ戦は生まれなかっただろう とまで言われている。

ゼロ戦は防御面が欠点だと言う事実は良く知られるが、設計段階で防御面は海軍からも要求はなく、徹底した軽量化により高い旋回性能を持つ事で敵機の攻撃を回避できると言う考えから、機体が重くなる防弾装備は当初不要との判断だった。
実際問題、日本はエンジン出力が低く、スピードを上げるには機体を軽くするしかなかった。その反面、アメリカは優秀なエンジンを開発し、ゼロ戦よりスピードが速い戦闘機をアメリカが持つ事で、ゼロ戦の優位性が崩れたのだ。

雷電、烈風と続けて設計を手掛け、疎開先の長野県松本市でも開発を目指したというが終戦。

戦後は木村秀政らとともにYS-11の設計に参加した。
三菱重工業は戦後分割されたため、それにともない発足した中日本重工業(のちの新三菱重工業)に勤務。
新三菱重工業では参与を務めた。
新三菱重工業を退社した後は、教育・研究機関で教鞭を執った。
1963年~1965年にかけて、東京大学の宇宙航空研究所(現、宇宙航空研究開発機構=JAXAを構成する宇宙科学研究所)にて講師を務めた。
1965年「人の操縦する飛行機の飛行性の改善に関する研究 :昇降だ操縦系統の剛性低下方式」と操縦装置の基本理論で東大工学博士。
1965年~1969年には防衛大学校教授。
1972年~1973年は、日本大学生産工学部教授。
1982年1月11日死去。享年78。



宮崎駿監督のジブリ作品「風立ちぬ」は、この堀越二郎さんの幼少時代の話から始まる。

彼がまだ10歳の頃「空」に憧れて、飛行機乗りを目指す。
そして少年が大人になり、飛行機の仕事に携わろうと思った時に、いやおうなく戦争の時代が訪れた。
その時代に彼が作るべきものは艦上戦闘機になった・・・という話なのだ。
しかし、宮崎駿監督は、特に戦闘機が好きですの~。
でも宮崎監督は名うての反戦主義者で知られるが、その辺り葛藤があった事は良く分かる。このジブリ作品と戦争を混同して評価するのだけはやめたいところだ。

実際の堀越二郎さんのご家族は、妻の須磨子さん、長男の雅郎さん。
2005年2月に、群馬県藤岡市にある堀越二郎の親戚宅の「蔵」で500枚に渡る堀越二郎が残した資料が見つかり、2013年2月には「烈風改(A7M3)」の詳細な設計図17枚があることが、寄贈を受けた藤岡市の調査でわかった。
2013年5月には、東京にある堀越二郎の自宅屋根裏に、段ボール箱十数箱があるのを家族が発見。
中身はゼロ戦の機体図や開発過程の実験記録、旧海軍に提出した極秘の報告書など数百~数千点に及び貴重な資料で、所沢の所沢航空発祥記念館同館が寄贈を受けた。

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