沖縄の旧海軍司令部壕を訪ねて~大田実海軍中将の思いと沖縄戦

旧海軍司令部壕



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沖縄でアメリカ軍と激しい戦闘となった「沖縄戦」を物語る貴重な遺構が、旧海軍司令部壕(かいぐんしれいぶごう)です。

旧日本海軍・司令部壕は、小禄飛行場(那覇空港)を守るために、昭和19年(1944年)、日本海軍第226設営隊(山根部隊)の3000名によって、約4ヶ月間で掘られた司令部壕となります。

工事のほとんどは、つるはしなどを使用した手作業だったと言います。
なお、最高軍事機密でもあったことから、那覇の住民は動員されることはありませんでした。
※住民は他の防空壕などに動員されている。


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当時は450mあり、トンネルが枝分かれしています。
また、艦砲射撃や爆弾投下に耐えられるよう、作戦室・幕僚室・司令官室・暗号室など重要な部屋は、コンクリートや漆喰で補強されていました。

旧海軍司令部壕

1944年12月に完成すると、1945年(昭和20年)1月20日に、佐世保鎮守府から海軍中将・大田実が、海軍の沖縄方面根拠地隊1万人の司令官として赴任しました。
大田実(当時は少将)は、千葉県長生郡長柄町出身で戦争中は主に陸戦部隊の指揮を執っていました。

旧海軍司令部壕

海軍壕は標高74mの丘にあり、戦時中は「74高地」と呼ばれていたようです。

3月23日頃から、アメリカ海軍などによる沖縄への攻撃が開始され、5月中旬に、アメリカ軍は那覇市街地に迫ります。
しかし、海軍はそもそも、艦船で戦うのが任務のため、陸軍のように陸上で使用できる大砲など重火器は、数が知れています。

沖縄戦

6月に入って、嘉数の陣地、浦添城の陣地と次々に突破された日本陸軍は、5月末に第32軍の首里司令部も陥落します。

旧海軍司令部壕

牛島満中将は司令部を摩文仁に移動させますが、この時、第32軍は海軍に対して、あいまいな命令を出したため、誤解が生じて撤退の際に、わずかな重火器も破却してしまいました。
そして、南部への移動を開始しますが「第32軍司令部の撤退を支援せよ」との命令を勘違いしたことがわかり、5月28日に再び戻りました。
再度の撤退命令にも応じず、2000名の海軍兵と共に、大田実海軍中将は、ここ司令部洞窟に残る決意をしています。
多い時でトンネル内には4000名もの兵が入り、立ったまま寝ていたとも言います。
6月11日、アメリカ軍に陣地を包囲されると、玉砕となり、参謀5名と共に大田中将は拳銃にて自決しました。

旧海軍司令部壕

下記は幕僚室に今でも残っている、手榴弾の破片が天井や壁に当たった跡です。

旧海軍司令部壕

なお、翌日以降、沖縄戦で初めて日本兵が159名集団投降したのもここ海軍壕からだったようです。

大田実の電報

大田実中将は、自決する直前の1945年6月6日午後8時16分に、海軍次官宛てに発信した電報が、アメリカでも日本でも広く知られています。
当時、決別を示す電報の場合「天皇陛下万歳」「皇国ノ弥栄ヲ祈ル」など、潔い言葉がおおかったものですが、要約すると下記のような話を伝えています。

旧海軍司令部壕

沖縄県民は、砲弾や爆撃で家・財産を失っても、陸海軍の邪魔にならないよう、風雨にされされながら困窮を受け入れている。
若い女性も看護婦として重傷者の看護を続け、炊事だけでなく、弾薬運びなども申し出る者もいる。
軍への勤労奉仕や物資節約を強要されても、日本人として奉公しており、沖縄県民はよく戦い抜いた。
県民に対し、後程、特別のご配慮を頂きたくお願いする・・。

上記4行の文字も、私は、涙なくしては書けませんでした。
この打電文は、米軍によって傍受されており、英訳した当時の資料がアメリカ国立公文書館に残されています。

旧海軍司令部壕

戦後、8年が経過した昭和28年に、生き残った元海軍隊員がこの司令部壕を訪れると、800名以上の遺骨が収集されました。
昭和33年には、更に1500名の遺骨を拾い、沖縄海友会によって海軍慰霊之塔が建立されたそうです。

海軍慰霊之塔

そして、昭和45年(1970年)3月1日から、壕内約300m区間が復元され「旧海軍司令部壕」として一般公開されるようになりました。

1972年(昭和47年)5月15日に沖縄が日本に返還され、那覇市内なども更に道路が整備されるなど、今では戦争があったなんて街中では感じられません。
そのため、世界平和を願う上でも、沖縄の戦争史跡は大変貴重だと存じます。

沖縄

この旧海軍司令部壕がある山の頂上からの展望は素晴らしく、遠くには那覇空港も見えます。
その那覇空港には、現在、航空自衛隊のF-15DJ戦闘機が40機任務についており、沖縄の防衛を担っています。
もちろん、アメリカ軍も駐留している訳で、基地を背負わされている負担も大きいと存じますが、沖縄は本当によく守られていて、沖縄の人々は幸せだなと嫉妬してしまいます。

歴史を学ぶと言う事は、2度と同じ過ちを繰り返さないためだと、いつも考えながら、色々と歴史の事を記事にしております。
いずれにせよ、再び、沖縄が戦場になるような事が無いよう、祈るばかりですが、日本人として尊い犠牲があった沖縄戦も忘れてはならないと強く感じた次第です。

F-15DJ戦闘機(那覇基地)

さて、旧海軍司令部壕への行き方ですが、当方のオリジナルGogoleマップで示している駐車場が、入口に一番近い場所となります。
通常の無料駐車場(メイン・サブ)はどちらかと言うと、山頂ではなく麓にあります。
壕への入口は山頂で、出口は中腹となっていますので、まぁ、下の方に止めても、問題はないです。

拝観は有料でJAF割引が使えます。
屋内施設なので、天気が悪い時の観光にも良いですし、那覇空港からのほど近いですので、レンタカーで帰りの飛行機まで時間が余った際に、立ち寄るのも良いでしょう。

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高田哲哉日本の歴史研究家

投稿者プロフィール

高田哲哉と申します。
20年以上、歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して史跡も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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