平井加尾と平井収二郎~加尾は坂本龍馬の初恋の相手?


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平井加尾(平井加帆、平井嘉尾、かほ)は、土佐国土佐郡井口村の出身で土佐藩新留守居組(上士)・平井伝八(平井真隆)の次女(長女?)。
平井収二郎の妹となるが、その平井収二郎(ひらい-しゅうじろう)と共にご紹介したいと思う。

新留守居組は上士でも一番下の身分だが、下士で2番目の郷士だった坂本龍馬よりは上の身分。

平井収二郎は1835年7月14日生まれ。
平井加尾は1838年生まれ。

平井収二郎は幼少時より文武を修め、伊勢の朱子学者・斎藤拙堂のもとで学んだと言う。

加尾は坂本龍馬の初恋の相手とも言われ、坂本龍馬より4歳年下になる。
和歌もたしなむ才色兼備だったと言われ、一絃琴を習う坂本乙女とは稽古友達であったことから、坂本龍馬とは幼馴染みだった。平井家と坂本家の家は約1km離れた距離。
平井加尾が生まれた家の裏山は、坂本家の墓地にもなっているので、意外と接点は近い。

土佐藩15代藩主である山内容堂の妹・山内友姫が、1859年12月に京の三条家(尊皇攘夷派)に嫁つぐ際、下士ではなく上士の娘だった事から御付役(奥女中)として上洛し三条家に仕えた。
そして、京では京に上った土佐の貧乏下士や脱藩浪士などを色々と手助けもし、兄・平井収二郎が幹部だった土佐勤王党(1861年1月~)の関係者を世話したり、京の動静を平井収二郎に報告もしていたようだ。

1860年8月に結成された武市半平太の土佐勤王党に入った坂本龍馬は、そんな行動力のある平井加尾に、物騒な京での身を案じたり、手助けしてもらいたいので、男装に必要なものを買うようにとの旨の手紙を1860年9月13日付で出している。
実際に平井加尾は土産物の名目で出入りの呉服屋から袴地と羽織地を買って仕立て、小刀は懐剣で間に合わせ、大刀だけは理由は明かさず兄・平井収二郎から送ってもらったようである。

これは2人で駆け落ちする準備をしていたとも、別の女性を男装させようとして平井加尾に準備を頼んだとも、平井加尾自身をスパイとして活用しようとしたとも考えられている。
また、のちに坂本龍馬は「三条家にいる平井加尾を官女として内裏(御所)に入れて、関東の情勢を探らせる」との提案を平井収二郎に話したが、さすがに断られたと言う説もある。

1861年2月に坂本龍馬が脱藩(土佐勤王党から脱退)すると、兄の平井収二郎は、平井加尾に手紙を出し、坂本龍馬の誘いはすべて断るよう言いつけており、坂本龍馬脱藩後のふたりに接点はない。

この頃、平井収二郎は土佐勤王党に参加し幹部となり、文久2年(1862年)には、藩主・山内豊範の上洛に随行し、8月には、小南五郎衛門と武市半平太と一緒に他藩の応接役に就任し、公卿や薩摩藩、長州藩と交流を深めている。
特に、安政の大獄で処罰された水戸藩士・鵜飼吉左衛門の子息2名の赦免を願い出ている。
一方、平井加尾は1862年10月まで三条家に仕え、その後は土佐に戻った。

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坂本龍馬が、坂本乙女宛に出した1863年8月14日付(推定)の手紙では「江戸で見染めた千葉佐那(千葉さな子)に比べ加尾が少し劣る」と記している。
千葉佐那は坂本龍馬と婚約したとも、実は結婚したとも言われている程関係が深かった女性で、坂本龍馬の死を知った後も一生独身で過ごした。

その頃土佐藩の実権を掌握した山内容堂(開国派)は土佐勤王党の面々に政治活動を禁止するように訓示したが、平井収二郎は青蓮院宮尊融親王から土佐藩への令旨を奉拝して土佐藩の藩政改革を進めようとした。
その為、山内容堂から、平井収二郎は謹慎を命じられ、その後、弘瀬健太、間崎哲馬と共に平井収二郎は切腹となり1863年6月8日に他界。享年29歳。
介錯人は幼馴染の平田亮吉。

下記は坂本家墓所のしたの方にある、平井修二郎の墓(平井家墓所)となる。

坂本龍馬は姉・坂本乙女への手紙の中で「平井の収二郎ハ誠にむごいむごい」と言い「妹お加尾のなげきはいか計か」と、平井加尾の事を気遣ってもいたようだ。
1866年3月に坂本龍馬はおりょうと結婚。
坂本龍馬が結婚した事は、平井加尾の耳にもすぐに入っただろう。

同年の1866年、27歳の平井加尾は元・土佐勤王党員の西山志澄(西山直次郎)25歳と結婚。
平井加尾の兄・平井収二郎に西山志澄(西山直次郎)は可愛がられていたようだが、平井収二郎が亡くなったあとでもあることから、恐らくは平井家存続のための結婚だったと考えられる。
西山志澄は当初、平井家に婿養子として入った。そして、女の子を1人設けている。
その翌年の1867年12月に坂本龍馬が近江屋で暗殺される。

1868年、西山志澄は戊辰戦争(会津戦争)に土佐藩兵として従軍。
同じ土佐藩士の参謀・板垣退助が指揮した正規軍・主力部隊の迅衝隊(約600名)に加わり、甲州・勝沼の戦いにおいて近藤勇の「甲陽鎮撫隊」を破り、西山志澄自身、会津戦争にて戦功もあげている。

1878年(明治11年)3月に、西山志澄は加尾と共に平井家を出て西山家に復籍。平井家はのち、娘に再興させている。
西山志澄は、自由民権運動などを行い、一時、保安条例違反で投獄されたこともあったが、1890年(明治23年)には自由党幹事、衆議院議員当選6回。1898年(明治31年)第1次大隈内閣では警視総監になっている。

明治24年、幕末の功績が認められ故・平井収二郎に贈従四位(従贈位四位)の贈位が行われた。
その翌年、明治25年に中江兆民が「平井収二郎君切腹の現状」という文章に当時の様子を書き残している。
なお、中江兆民に執筆を依頼したのは加尾だと言われている。
西山加尾は1909年(明治42年)に72歳で没した。墓は東京都港区青山2丁目の南青山霊園。
西山志澄は1911年(明治44年)5月27日没。

西山家には坂本龍馬の筆のかたわらに女性の筆跡で縫い付けられた「あらし山花にこころのとまるとも、馴しミ国の春な、わすれそ」という歌が残されており、また、坂本龍馬と再会できなかった若き日のことを「女子一生の痛恨」とも記し、加尾は坂本龍馬と結婚したかったとも伺える。

平井加尾は生涯は、幕末・明治維新に名が出てくる篤姫など、時代に翻弄された他の女性同様、苦労と波乱に満ちた一生だったと言えるが、坂本龍馬死後の千葉佐那やお龍と比較すると、平井加尾は子にも恵まれ、比較的平穏な日々を過ごせたようで、幸せな人生を送ったのではないかと小生は考えている。

平井修二郎の墓や平井加尾・平井収二郎の誕生地の場所は、女優・広末涼子さんが通っていた城北中学校から西となるところにあるが、当方のオリジナルGoogleマップの「高知編」にて、示させて頂いている。

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