岡本健三郎とは~下横目として監視役を務めた土佐藩士

岡本健三郎



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岡本健三郎(おかもと-けんざぶろう)は、幕末の1842年10月13日に土佐郡潮江村(高知市)にて生また土佐藩士です。

父は、土佐藩士の岡本亀七で、母の名は寅となります。

岡本健三郎は土佐藩では下横目(した-よこめ)と言う下士となったようです。
今で申し上げますと警察の下っ端、江戸幕府で例えると、同心の下で働いた「岡っ引き」のような役割です。
岩崎弥太郎ものち下横目を担当しています。


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坂本龍馬中岡慎太郎とも交流すると、国事に奔走しました。
しかし、岡本健三郎は下横目であり、脱藩はしていなかったようで、海援隊にも入っていません。
後藤象二郎の命を受けた調査役(スパイ)だったとする説もあります。

慶応3年(1867年)には、後藤象二郎の依頼を受けた坂本龍馬は、山内容堂の書状を持って越前へ出向き、松平春嶽の上京を促しています。
この時、岡本健三郎も坂本龍馬と一緒に松平春嶽を訪ねており、福井城下の烟草屋(たばこや)では、由利公正(三岡八郎)と坂本龍馬の会談に同席して、世直し後の経済政策を聞いたとされています。

その足で京都に戻ると、坂本龍馬暗殺事件となります。
伏見の近江屋において、坂本龍馬と中岡慎太郎が襲撃・暗殺された「近江屋事件」の直前まで、岡本健三郎も同席して同じ部屋にいました。
しかし、別用にて退席したため、岡本健三郎は難を逃れています。

明治維新後は、大阪府にて勤務し、土木頭、治部司、太政官権の判事から、大蔵大丞を歴任しました。

明治5年(1872年)、万博博覧会の視察でオーストリアへ派遣されています。

明治6年(1873年)、明治六年政変にて板垣退助らと下野し、民選議院設立建白書を作成に参加しました。

明治11年(1878年)、西郷隆盛が西南戦争を起こすと、その機に乗じて立志社挙兵計画にて蜂起しようとし、小銃の弾薬を購入を企てた容疑にて投獄されます。
禁固2年となり出獄すると、板垣退助の自由党に加入しました。
また、実業家として活動を始め、明治18年(1885年)、日本郵船会社が創設されると理事にもなっていますが、明治18年12月26日に死去しました。
享年44歳。



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なお、日本郵船は、岩崎弥太郎が築いた三菱財閥の中核なる会社です。
岩崎弥太郎は、坂本龍馬暗殺の仕掛人ともする説もありますので、岡本健三郎が厚遇されつつも、日本郵船に入って僅かの期間の44歳で亡くなった訳も気になるところです。

記事トップの写真は、京都四条河原の薬種店亀田屋の娘・タカと、土佐藩士・岡本健三郎とされています。

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高田哲哉日本の歴史研究家

投稿者プロフィール

高田哲哉と申します。
20年以上、歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して史跡も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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コメント

    • たかだ
    • 2020年 5月 18日

    青山様、ご指摘、非常に助かります。修正させて頂きましたこと、ご報告申しあげます。(^-^)

    • 青山繁晴
    • 2020年 5月 13日

    寺田屋ではなく近江屋の間違いかと。

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