武市半平太とは~一藩勤王の理想をかかげ土佐勤王党を設立する


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一藩勤王の理想を掲げ、高知にて「土佐勤王党」(とさきんのうとう)の首領となった武市半平太(たけいちはんべえた)。
その武市半平太の生涯を高知のゆかりある地ともにご紹介したい。

武市半平太は、文政12年(1829年)9月27日、土佐の吹井村(現在の高知県高知市仁井田)で生まれた。幼名は鹿衛。諱は小楯(こたて)。号は瑞山または茗澗。
下記写真はその高知にある武市半平太旧宅となる。

武市瑞山(たけち-ずいざん)が名前だが、歴史では 武市 半平太(たけち-はんぺいた)と称されることが多い。

父は土佐藩の郷士・武市正恒 (51石)で、母はテツ (大井氏の娘)。

武市家はもともと豪農であったが、5代前の武市半右衛門が享保11年(1726年)に、郷士の株を購入して郷士となった家であった。
1822年に、累代の功績が藩に認められ白札に昇進。
この「白札郷士」は身分としては郷士だが、当主は上士に準じた扱いとなり、郷士の中でも名家となった。

1841年、一刀流・千頭伝四郎に入門して剣術を学んでいる。

1849年8月に父が亡くなり、また母も亡くすと、11月に家督継承が認められて、残された老祖母の扶養のために、12月に郷士・島村源次郎の長女・富(富子)を妻に迎えている。

1850年3月、高知城下に転居して、小野派一刀流(中西派)の麻田直養から剣術を学び、間もなく初伝を授かると1852年に中伝を受けた。

1853年、ペリー提督が浦賀に来航すると、日本は騒然となり、武市半平太は土佐藩から西国筋形勢視察の任を受けたが、辞退している。
1854年、高知城下の新町に剣術道場を開いた。

1854年11月5日の安政南海地震で家屋を失ったが、翌1855年に新築した自宅に妻の叔父にあたる槍術家・島村寿之助と協同道場を開いた。
すると、名声が高まっていた武市半平太の道場には120人の門弟が集まったと言う。
この道場の門下には中岡慎太郎や岡田以蔵らがおり、後に結成される土佐勤王党の母体となった。

武市半平太は、品行よく自己に厳しかったが、周囲の者にもそれを求め、潔癖、律儀、悪く言えば、融通の利かない頑固な気質であり、指導者としての才能にあふれていたと言う。

1856年、藩の臨時御用として海防警備のため岡田以蔵や五十嵐文吉らと江戸へ出て、鏡心明智流の桃井春蔵に学び、塾頭となる。
江戸では桂小五郎久坂玄瑞高杉晋作など尊皇攘夷派の長州藩士とも交流し、同時期に坂本龍馬も江戸の桶町千葉道場(北辰一刀流)で剣術修行を行っている。

1858年、一生二人扶持の加増を受け、剣術諸事世話方を命じた。

1859年2月、一橋慶喜を将軍にしようと運動していた土佐藩主・山内豊信が大老・井伊直弼によって隠居させられ、謹慎処分となる。
翌1860年3月3日には、井伊直弼が暗殺され(桜田門外の変)、土佐藩内でも尊王攘夷の機運が高まった。

武市半平太は西国の動静を視察する為、岡田以蔵、久松喜代馬、島村外内を伴い武者修行と称して西国旅行に出た。
長州藩を経て九州に入ると武市半平太は攘夷派志士の思想に大きな影響を与えた国学者・平田篤胤の「霊能真柱」を持ち帰っている。

土佐勤王党の結成

1861年7月、江戸に出ると長州藩の桂小五郎や久坂玄瑞、高杉晋作、薩摩藩の樺山三円、水戸藩の岩間金平ら尊王攘夷派と交流。
土佐藩の尊王攘夷運動が遅れているのを実感して、幕府に攘夷を迫る為、大石弥太郎、坂本龍馬、吉村寅太郎、中岡慎太郎らの同士を集め、江戸にて土佐勤王党を結成した。

2年後には192名が参加し、坂本龍馬が土佐における筆頭加盟者となった。
間崎哲馬・平井収二郎・中岡慎太郎・吉村虎太郎・岡田以蔵ら加盟者の大半は下士・郷士・地下浪人の下級武士や庄屋で、上士は2人しかいなかった。

この頃の土佐藩は山内容堂の信任厚い参政・吉田東洋らが藩政改革を進めており、藩論は開国・公武合体であった。
武市半平太は藩論を尊王攘夷にするべきだと進言するが、元々郷士の分際でと受け入れてもらえなかったと言う。

1862年2月、薩摩藩の島津久光が2000をもって上京するとの報がもたらされ、長州藩の久坂玄瑞は土佐勤王党も参加するようにと説いた。
しかし、武市半平太の考えは、土佐藩全体として攘夷を実現すると言う考えであった為動かず、吉村虎太郎、宮地宜蔵、沢村惣之丞、坂本龍馬らは脱藩する結果となった。

そのような経緯もあり、開国・公武合体派の吉田東洋暗殺を指令。
1862年4月8日、土佐勤王党の那須信吾・大石団蔵・安岡嘉助が襲撃して殺害し、その首を郊外の雁切橋に獄門にかけ斬姦状を掲げた上で、刺客達は逃亡脱藩した。

暗殺後、吉田東洋派を土佐藩の政権から追い出し、土佐勤王党を庇護していた山内大学・山内下総らが要職に就いて、土佐勤王党が事実上藩政を掌握した。
そして、三条実美を介して念願の勅命を得ると藩主・山内豊範を奉じ、参勤交代と称して8月に京に進出し、上洛後は他藩応接役として、多くの志士と関わる一方で、朝廷工作にも奔走した。
京都では一橋慶喜の入京を妨害し、数々の佐幕派暗殺に関与。岡田以蔵は「人斬り以蔵」の名でも知られるに至った。

武市半平太は1862年12月に土佐に戻ると、1863年1月、白札から上士格留守居組に昇進。さらに3月には京都留守居加役となった。
これは過激な土佐勤王党から、武市半兵太を引き離すための、山内容堂の策謀であったとも考えられる。

土佐勤王党の衰退と死

入京した山内容堂は土佐勤王党の台頭に不快感を示しており、武市半平太を除く勤王党志士に対し、他藩士との交際を禁じた。

更に吉田東洋暗殺の下手人捜索を命じ、土佐勤王党の平井収二郎・間崎哲馬・弘瀬健太は入牢させられ、厳しく尋問された。
自らも処罰される危険を承知で京から土佐に戻った武市半平太は、3名の助命を嘆願するが、6月7日に死罪が決定し、翌8日に3人は切腹となった。

土佐藩の政権からも土佐勤王党派は除外され、武市半平太は山内容堂に謁見して藩政改革の意見書を提出するも、すべて受け入れられなくなる。

1863年8月18日、会津藩と薩摩藩が八月十八日の政変で長州藩を京都から追い出すと、土佐藩においては隠居・謹慎処分となっていた公武合体派の前藩主・山内容堂が、謹慎を解かれて土佐に帰国し藩政を掌握し、後藤象二郎などを起用。
すると、武市半兵太も9月に捕縛・投獄された。そして、他の土佐勤王党同志も次々と捕縛されていく。

武市半平太は上士扱いなので拷問はなかったと言うが、約1年6ヶ月のあいだ、獄中でまだ捕まっていない同志を思い、吉田東洋暗殺も否定し続けたという。

後に捕縛された岡田以蔵が自白するのを恐れて、毒殺しようとしたが失敗し、岡田以蔵が怒って自白したが、武市半兵太はそれでも東洋暗殺を否定した。
長い獄中生活では下痢が続き、次第に衰弱していった。

妻の富子は、武市半兵太が投獄されてから死ぬまで、夫と苦労を共にすべく板の間で寝起きし、夏は蚊帳を吊らずに過ごしたとも伝わっている。

そんな中、ついに 1865年閏5月11日「君主に対する不敬行為」という罪目で、武市半兵太は切腹を命ぜられた。享年36。

下記は高知城や「ひろめ市場」からも近い、武市瑞山先生殉節之地の石碑。

自白した岡田以蔵、久松喜代馬、村田忠三郎、岡本次郎の4名も斬首となった。

武市半兵太は、未だ誰も為し得なかった三文字の切腹を成し遂げて、武士の気概を見せたと伝わる。

辞世の句は「ふたゝひと 返らぬ歳を はかなくも 今は惜しまぬ 身となりにけり」

武市家は断絶となり、土佐勤王党は事実上壊滅した。
しかし、1866年、坂本龍馬・中岡慎太郎・土方久元によって 薩長同盟が成立し、時代が明治維新へと大きく動き出した。

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武市半兵太が生きていれば、明治政府での土佐の立場はもっと上がっていたとされ、後藤象二郎と板垣退助は「武市半平太を殺したのは、我々の誤りだった」と、妻・富子に対し謝罪の言葉があったとも伝わる。

高知の武市半平太旧宅がある場所と、武市半平太の最後の地である「武市瑞山先生殉節之地」は、当方のオリジナルGoogleマップ「高知」編にてその場所を示させて頂いております。

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