徳信院の解説~徳川慶喜の養母として朝廷交渉を支援

徳信院



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徳信院とは

徳信院(とくしんいん)は、幕末の女性で、一橋家の7代当主・徳川慶壽の正室となります。
名前は、直子女王(つねこ-じょうおう)と言いますが、一般的には、院号である徳信院として知られています。
2021年NHK大河ドラマ「青天を衝け」では、女優の美村里江(みむら-りえ)さんが演じられます。
1998年NHK大河ドラマ「徳川慶喜」では、鶴田真由さんが演じられていました。

徳信院

徳信院の出身は、京都で、伏見宮貞敬親王(ふしみのみや さだよししんのう)の娘(王女)として、1830年に生まれました。
父・貞敬親王は、16男19女もの子宝に恵まれており、その17王女が直子となります。
母は梅藻院・合田愛子です。



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天保12年(1841年)に一橋徳川家当主・徳川慶壽(とくがわ-よしひさ)と結婚し、江戸の一橋邸に入っています。
この縁組は、清水徳川家4代・徳川斉明の正室となっていた、姉・英子女王の仲介もあったようで、徳川慶壽は数え19歳、直子は12歳(満11歳)でした。
しかし、1847年5月7日、徳川慶壽は25歳で死去し、直子は17歳で未亡人となります。
後継ぎがいなかったため、末期養子を迎えましたが、その幼子もすぐに死去します。
そのため、4ヶ月後には、徳川慶喜(11歳)を養子に迎え、徳信院(直子)は義母となりました。
<注釈> 末期養子とは、緊急的に、自分が死んだ後に養子にすると、届け出しておいて、お家存続を図る仕組み。

徳信院(直子)は、徳川慶喜との年齢差が7歳ほどであったことから、「弟」のように、かわいがったと伝わります。
徳川慶喜に取っても、初めて、身近に接する、若い女性でした。

1855年12月、徳川慶喜は、2歳年上である美賀君(みかぎみ)と結婚します。
<注釈> 青天を衝けでは、川栄李奈さんが、美賀と結婚します。
しかし、あまりにも、徳信院と徳川慶喜が、仲が良いので、1年6ヶ月後に、美賀君は自殺未遂を起こしたとも言われています。



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ただし、一橋慶喜が上京して江戸を留守にすることが多くなると、美賀と徳信院は、やがて姉妹のようになったとされています。
なお、徳信院は、徳川慶喜などに対して、政治面でも意見を述べているところがあり、当時の女性としては、珍しいところがあります。

ちなみに、中川宮(久邇宮朝彦親王)は、徳信院より6歳年上の甥となります。
徳信院の仲介もあったようで、尊王攘夷を掲げる中川宮と、徳川慶喜の間を取り持ち、調停工作も支援しました。

一橋慶喜が、江戸幕府将軍となると、一橋家の当主は、どうしたの?と、疑問が生じます。
しかし、御三卿(田安家・一橋家・清水家)に関しては、将軍から直接、禄を拝領する形であったため、当主が不在でもお家存続は可能でした。
そのため、女当主として、徳信院が切り盛りし、明治維新まで一橋家を守りました。

明治に入ると、徳川慶喜は駿府にて謹慎します。
そして、徳信院らは、転々としましたが、明治19年(1886年)徳川慶喜の招きで、静岡にて暮らすようになりました。



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徳信院は明治25年(1892年)頃から体調を崩し、1893年1月3日に、江戸・小石川邸にて死去。享年64。
墓所は、上野の凌雲院にある徳川慶壽の墓所に合葬されています。

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高田哲哉日本の歴史研究家

投稿者プロフィール

高田哲哉と申します。
20年以上、歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して史跡も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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