奇兵隊とは~高杉晋作が理想掲げた軍隊は強かった


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奇兵隊は長州藩士・高杉晋作の提案で1863年6月に創設された常備軍。

下関戦争で外国艦隊にあえなく敗れた長州藩は一転して危機を迎える。

高杉晋作が「奇を以って虚をつき敵を制する兵をつくりたい」と周布政之助に進言すると、長州藩主・毛利敬親の許可が出て、下関防備を命じられた。

これで、高杉晋作の10年の予定だった隠遁生活は、わずか2ヶ月で終わっている。

奇兵隊の母体は、久坂玄瑞が結成した光明寺党で、最初に入隊したのは15名だと記録されている。

奇兵隊は吉田松陰草莽崛起と言う考え方に基づき、志願制であり、武士だけでなく、農民、町人、漁師、猟師、穢多、神官、力士、僧侶など身分を問わず、義勇軍的な組織となった。
農民の軍隊と言うイメージがあるが、実際には武士出身者が約50%、農民出身者が約40%と言う構成になっている。

当初は外国艦隊からの下関防衛が任務で、本拠地は奇兵隊を支援した廻船問屋・白石正一郎が、邸宅を提供した。
その後、所帯が増えたため、本拠地は赤間神宮に移っている。

また、八月十八日の政変にて七卿落ちした際には、奇兵隊が三田尻にて七卿の警護を担当している。

七卿落ちとの詳細はこちら

奇兵隊士が長州藩士で構成される撰鋒隊と衝突した教法寺事件によって、高杉晋作は僅か3ヶ月で総督を更迭されて、藩政を命じられたため、その後は河上弥市と滝弥太郎が総督職となり、のちに赤根武人が総督となり山縣狂介(山縣有朋)が軍監を務めた。

その後、長州藩には奇兵隊以外にも身分を問わず戦闘部隊として組織された御楯隊など、約100もの諸隊ができたため、奇兵隊も長州藩諸隊の1つとして長州藩の正規軍に組み込まれた。

そして、最盛期640名の奇兵隊は第一次長州征伐や、鳥羽・伏見の戦いなどで活躍する。

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奇兵隊の戦術

長州藩には100もの諸隊があった中で、なぜ奇兵隊が有名なのかと言うと、その「強さ」に他ならない。

当初は西洋と和流の混在があったが、下関戦争で敗れた要因を研究すると、やはり西洋式でないとダメだと言う事になり、農民でも鉄砲を撃てるよう訓練もした。

特筆すべきはその「戦術」で、西洋式の散兵戦術を用いたことにある。

それまでの日本の戦い方は、密集陣形を組んで指揮官が指揮する方法で、兵の逃亡を防止する効果もあった。
しかし、銃火器が発達した幕末では、一箇所に密集しているところを鉄砲や大砲での攻撃を受けると、まとまって被害をうけると言う不利な点も生じていたため、奇兵隊は下記のような散兵戦術を駆使した。

まず、兵の1人1人を信用した上で、指揮官の指示が届かなくても1人で判断して戦えるように訓練した。
そして、基本的には鎧などまとわない軽装として、機動力を重視する。
1分間に180歩も進める機動力にて、散開して敵陣に突撃できる軍隊としたのだ。
兵が広く散開すれば、指揮官の命令は届かないので、各隊員が全体の戦術を把握していないと戦えない。
つまり個々の判断が必要となる為、猛訓練が必要だが、隊長が倒れても、代わりの者が隊を率いて、戦闘が継続できると言う利点もあった。
そのため、走り回ると言う「体力づくり」も訓練に組み込まれ、50kmを8時間で走破する訓練や、相撲もあったと言う。

このように、奇兵隊の隊士には、軍事訓練だけでなく「教養」も教育した。
自分で命令書を書く事ができるように、砲術だけでなく、孟子などの教育も行ったのだ。

そして、精励した者は、農民でも本隊に入れると言う「出世制度」も導入し、怠けていれば昇格できず、勉学が足りない者は外出禁止にもなったと言う。

幕府側の史料を見ると、戦った相手は長州藩兵ではなく「奇兵隊」と記述する事が多い。
実際に、奇兵隊が加わっていなかった戦いでも、相手は奇兵隊と記載しているくらい、長州藩を代表する軍組織へと発展したのであった。

このように従来の軍制を改革して、最新兵器を駆使すると言う戦術を用いたと言う点では、高杉晋作は戦国時代の織田信長にも匹敵する革命を起こしたと言えよう。

高杉晋作についてはこちら

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