小野為八 (小野正朝) 奇兵隊の砲術指揮官で写真術にも通じた異才


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 小野為八(おのためはち)は、長州藩医(眼科医)・山根文季の長男として香川津にて、1829年に生まれた。小野正朝とも。
 幼少より藩医・小野春庵のもとで教育を受けるとその後、藩医・小野家の養子となった。

 弟に山根孝中、叔父に山根正次がいる。

 しかし、医者にはならず、1844年、17歳の時に吉田松陰から山鹿流兵学を学ぶ。

 長崎に赴くと洋式砲術の免許を得て、砲術家としての理論と実践を身につけた他、砲術のみならず電気や写真に関する知識を修得して帰藩した。

 1855年、実父・山根文季に随行する形で外国船来航を警戒する相模国(神奈川県)三浦半島の警備に赴いた。

 1858年、30歳の時、吉田松陰の松下村塾に入門。
 吉田松陰が徳川幕府の老中・間部詮勝を暗殺する計画をたて、土原扇の芝にて地雷火の実験を行った際、幽閉の身の吉田松陰を背負って現場に行き、この実験を見学させたと言う逸話がある。
 これは、吉田松陰が自宅謹慎中で、自分の足で外出することが許されていなかったため、小野為八が松陰先生を背負って行ったと言う事だ。

 この地雷実験をしたことで小野為八は自宅謹慎処分となったが、のちに許されると、その多方面の知識をもって長州藩の洋式砲術の教授に就任。

 1863年、長州藩が下関海峡で米・仏・蘭の外国艦船を攻撃した攘夷戦では、藩船・癸亥丸に乗船して、艦砲射撃の指揮をとった。

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 高杉晋作により奇兵隊が結成されると、砲術の教師として兵士たちを指導した他、地雷火を吉岡新太郎、西村慶太、進藤判蔵に教えている。

 整武隊にも入隊し、1866年の第2次長州征伐や戊辰戦争などでも、砲兵隊を率いて活躍した。

 維新後は、公務についていたが、引退すると、明治8年には山口氏に河村写真館を開く(別説有)など写真術の他、バターの製造、焼き物の東光寺焼等にも挑んでいる。
 明治10年には山口県雇となり、明治2年からは神道黒住教に入門して教導職に当たった。

 別の一面としては等魁という画号をもつ雲谷派の絵師でもあった。

 明治40年 (1907年) 8月20日、呉市にて死去。享年79歳。
 従五位を贈られた。
 墓は萩市北古萩町の海潮寺。

 下記の写真は明治初期に、小野為八が撮影したとさる萩城の古写真
 出典:萩市郷土博物館蔵

 → 眼科だった父・山根文季のご紹介はこちら

 

 

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