山根文季  コロリで命を落とした長州藩の名眼科医


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 長州藩医(眼科医)であった山根文季は、矢原村で眼科医として名声高い重宗良策の次男である。名は山根正直とも。
 子の小野為八(おのためはち)は幕末の攘夷運動に身を捧げている。

 山根文季はは矢原の蔵光で育ち、げんだ川という灌漑用水路を隔てた南側に住んでいたと言う。
 父・重宗良策は40歳頃に、手足の麻痺して仕事ができなくなった為、藩医になるという念願を山根文季に託した。

 やがて、山根文季は長州藩の御雇医となって萩城下に住みむと寺社組に組み込まれ、のちに城番となった。

 長州藩からは萩の東香川津に広大な土地を与えられ、そこで眼科医として開業。
 遠方から来た患者はそのまま自宅に泊めて食事も与え、薬代が払えない者からは代金も受け取らず、逆にお金も与える事があったと言う。
 その為、萩の人々からは大変慕われ、医院はいつも混雑していたようだ。

 普段は倹約家で、無口だったと言うが、客が来れば親しく酒を飲み、飲むと客が大笑いをするほど楽しませたと言う。

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 山根文季は、吉田松陰とも親交があり、1855年には、子の小野為八を連れて、外国船来航を警戒する相模国(神奈川県)三浦半島の警備に長州藩士らと共に赴いている。

 なお、長男・小野為八は、藩医・小野家の養子となっていた為、重宗恭安の次男・山根孝中を養子に迎えている。
 山根孝中も36歳の時(1858年)、吉田松陰の松下村塾で学んだ。

 NHK大河ドラマ「花燃ゆ」では、コロリに感染したキクの母親を心配する、キクを思う杉文(久坂文)と共に登場するシーンがある。

 しかし、山根文季は1858年8月、流行のコレラで没した。57歳。

 この時、当時幽閉中の吉田松陰は「山根文季墓誌銘」と題して文を起している。

 養子の山根孝中(やまねこうちゅう)も眼科医としての評判は良く、戊辰戦争でも医師として従軍。
 特に会津攻めでは敵味方問わず負傷者の治療にあたったと言う。
 なお、この山根家の子孫は、のちの日本医科大学の創設にも関わった。

 (参考) 吉田松陰全集 第5巻

 

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