3分でわかる吉田松陰の偉大さ~長州藩の過激で有能な志士




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吉田松陰とは

吉田松陰は、1830年、長州藩の藩士・杉百合之助の次男として生まれた。
家禄26石と言う農業もする貧しい暮らしであったが、父は子供たちと一緒に畑仕事をしながら、四書五経を素読するなど教育熱心で、吉田松陰は叔父・玉木文之進からも毎日学んだと言う。
家でも暇さえあれば、本を読んでいたが、1834年、父の弟・吉田大助の仮養子となった。
この吉田家は毛利家の軍略・山鹿流兵学の師範であり、翌年に家督を継ぐと早くも才能が認められ、吉田松陰は1838年、僅か9歳で藩校明倫館の兵学師範(先生)に就任。
1840年、11歳の時には藩主・毛利敬親へ「武教全書」と言う戦法を講義すると「松本村に天才あり」と吉田大次郎(吉田松陰)の名は萩城下に知れ渡った。


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1842年、叔父の玉木文之進が自宅で「松下村塾」を開くと通って勉学に励み、13歳の時には、長州藩の山鹿流兵学による西洋艦隊壊滅作戦演習を指揮した。
僅か19歳にて、藩校・明倫館の独立師範(兵学教授)となると、以後は積極的に藩主にも意見書を度々提出。
1849年、御手当御用内掛(海防掛)に任命され、西洋の情報を得る為、九州遊学を経たのち、江戸に出た。

江戸では佐久間象山のもと学問を究め、その後、脱藩して東北を視察。
江戸に戻ると謹慎処分となり、萩野の杉家にて謹慎したが、すぐに許されて再び江戸へ入った。
1853年6月5日、黒船来航黒船を見に浦賀まで行き、国防意識を強く抱くと、外国への密航を計画。
長崎に向かいロシア船に乗ろうとしたが、すでに出港してしまった為、江戸に戻ったが、再びペリー艦隊が再航。
伊豆・下田まで行き、夜陰に紛れて小舟で黒船に近づき、密航したいと訴えたが、ペリー提督の許可がおりなかった。

ペリー艦隊

その密航企てが露見する可能性が高かった為、吉田松陰は幕府に自首し、小伝馬町の牢屋敷に入れられた。
その後、命は許されて萩の野山獄に入ると、獄中で「孟子」の講義などを開始。
自宅謹慎となっても、部屋にて「孟子」の講義を行うと、評判となり、吉田松陰が「松下村塾」を引き継いで、高杉晋作、増野徳民、松浦松洞久坂玄瑞、高杉晋作、吉田稔麿入江九一伊藤博文山県有朋前原一誠品川弥二郎山田顕義野村靖など、その後、幕末・維新で活躍する志士を教育した。


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日米通商条約が結ばれると吉田松陰は強く批判し、老中・間部詮勝の暗殺を企てた為、再び野山獄へ投獄され松下村塾は閉鎖された。
江戸幕府も吉田松陰の企てを知る所となり、江戸に送致されると再び伝馬町の牢獄へ投獄された。
安政の大獄により、厳しく罰せられているさなかでもあった為、さすがに今回は許されず、1859年、吉田松陰は斬首刑に処された、享年30(満29歳没)。

日本はその9年後、明治維新を迎える。
吉田松陰が若くして亡くなる事がなかった場合、明治時代はどのようになっていたのか?
偉大な見識者の、早くて残念な死であったのだ。

もっと詳しく知りたい方は 吉田松陰 詳細版
吉田松陰の人物像に迫る
NHK大河ドラマ「花燃ゆ」 キャスト一覧



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高田哲哉日本の歴史研究家

投稿者プロフィール

高田哲哉と申します。
20年以上、歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して史跡も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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コメント

    • 高田哲哉
    • 2015年 3月 11日

    長谷川さま、お褒めに授かり大変光栄でございます。ありがとうございました。

    • 長谷川勤
    • 2015年 3月 11日

    拝見してとても良い記事と思いました。


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