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杉百合之助は1804年2月23日生まれ。
父は、長州藩の給通組士・杉常徳(杉七兵衛)。
玉木文之進は実弟。
26石の小禄であり、長州藩士約3000名の中だと2000位くらいの石高となる。
1824年に、杉家の家督を相続し、1825年に児玉太兵衛の養女・滝(杉滝)を迎えた。
家格は無給通組(下級武士上等)で石高は僅か26石と極貧の武士であったため、普段は農業もして生計を立てていたが、暮らしが苦しくても士分の誇りは失わず、また無類の読書好きだったと言う。
1830年(天保3年)、記録御次番役に就任。
そして、1830年8月4日には、次男・杉寅之助(のちの吉田松陰)が誕生している。この時、杉百合之助は26歳。
1832年、長女・杉芳子(杉千代)が誕生。
1835年、呉服方に就任。
この年、1835年、弟・吉田大助が死去したため、吉田家(家禄57石)の家督を、次男の杉寅之助(吉田松陰)に相続させている。
1839年、次女・杉寿が誕生。
1841年、3女・艶が誕生するも、1843年に早世。
1843年、百人中間頭兼盗賊改方に任ぜられ、家を離れて、萩城下に住んだため、長女・杉千代が父の世話をしている。
杉文 (杉美和子)が誕生。
1845年、杉敏三郎が誕生。発音が不自由な身であった。
1855年、密航を企てた吉田松陰が生家預かりの育みとなり、杉家にて蟄居。
杉百合之助は藩に責任を取って切腹すると申し出たが、差し戻されている。
吉田松陰は蟄居の身であったが、杉百合之助や近親者に『孟子』や『武教全書』を講じ、杉百合之助は自宅にて塾を開く事を勧めた。
1856年、吉田松陰が許されて、松下村塾の主宰者となると、長男・杉 修道(杉梅太郎)と共に、父・杉百合之助は最初の生徒となった。
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吉田松陰が入獄する際には、下記のような言葉を贈っている。
家君(かくん)欣然(きんぜん)として曰く(いわく)
一時の屈(くつ)は万世(ばんせい)の伸(しん)なり、いずくんぞ傷まん(いたまん)
親 思う心にまさる親心今日のおとづれ何と聞くらん
上記は、吉田松陰が処刑される直前に歌った句。
1859年5月、吉田松陰が江戸護送になると、杉百合之助も責任を問われ、藩職を罷免された。この時、杉百合之助は55歳。
1860年に家督を長男・杉 修道(杉梅太郎)に譲った。
1863年、藩政改革で長州藩士として復職し、百人中間頭(ちゅうげんがしら)兼盗賊改方に復職となった。
1865年3月、辞職してほどなく死去。62歳
墓は山口県萩市の椿東椎原にある。
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