品川弥二郎~幕末・維新の外交に重要な役割を担った偉人


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 品川弥二郎(しながわやじろう)は、1843年閏9月29日に長州藩の足軽・品川弥市右衛門の長男として生まれた。
 足軽の家で身分は低かったが、1858年、15歳で吉田松陰松下村塾に入門。
 温厚正直で人情に厚く、うわべを飾らない。抜きん出た能力はないが、心が広く奥深いのが優れている と、吉田松陰は評価している。
 また江戸の練兵館では剣術を学んでいる。この練兵館は千葉周作(北辰一刀流)の玄武館、桃井春蔵(鏡新明智流)の士学館とともに、幕末三道場といわれている。

 1859年、安政の大獄で吉田松陰が刑死すると、高杉晋作らと行動を共にして尊王攘夷運動に奔走し、英国公使館焼き討ちなどを実行している。
 しかし、高杉晋作が外国艦隊と和睦したことを知ると憤り、高杉晋作と敵対したこともある。

 1864年、禁門の変では八幡隊長として指揮し、のちに太田市之進、山田顕義らと御楯隊を創設した。
 下関戦争の際には、外国艦隊に降伏するのに反対し、藩主・毛利敬親に上申している。

 1865年、木戸孝允(桂小五郎)と共に上京して情報収集を行い、連絡係として薩長同盟の成立に尽力。
 第二次長州戦争では御楯隊参謀として軍功をあげ、戊辰戦争では奥羽鎮撫総督参謀、整武隊参謀として活躍した。
 歌詞の一番に有栖川宮熾仁親王の姿を歌った「宮さん宮さん~」の歌い出しで知られる『トコトンヤレ節』を作詞したことでも知られている。

 なお、品川弥二郎の妻・静子は、日本陸軍の祖である山縣有朋の姉・山縣寿子の長女。

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 明治維新後の明治3年(1870年)、戦争視察の命を受け、ヨーロッパに渡ると普仏戦争を見学すると、そのまま留学を希望してロンドンに留まり、軍事を学ぶためドイツに留学した。
 しかし、この海外経験において、次第に政治や経済にも注目して行った。
 帰国後、内務大書記官や内務少輔、農商務大輔、駐独公使、宮内省御料局長、枢密顧問官などを歴任。

 明治17年(1884年)、維新の功により子爵を授けられた。

 明治18年 (1885年)、塩原温泉塩釜の地(栃木県那須塩原市)に別荘を建てたが、この別荘は、塩原温泉における別荘建築として最古に属し、現在は「品川弥二郎の旧念仏庵」として、市の有形文化財に指定されている。
 この頃から、1887年までドイツ公使。
 
 明治24年(1891年)、第1次松方内閣の内務大臣に就任。しかし、内務次官・白根専一とともに警察を動員し、1892年2月15日の第2回選挙において、野党候補者を抑える強力な選挙干渉を行ない、官民の抗争で死者25人・負傷者388名を出した経緯を非難され、引責辞職を余儀なくされた。
 高知県や佐賀県は、元自由党の板垣退助、元改進党総理の大隈重信の出身であった為、特に干渉は甚だしかったと言う。

 その後は西郷従道と協力して政治団体・国民協会を結成したが、第二次伊藤博文内閣と対立し不振に終わった。

 民間関係での貢献としては、獨逸学協会学校(現:獨協学園)や旧制京華中学校(現:京華学園)を創立し、また信用組合や産業組合の設立にも尽力した。


 ※写真は九段坂・牛ケ淵のお濠沿い(靖国神社近く)にある品川弥二郎の銅像。

 晩年は京都で隠遁すると吉田松陰の遺志を継ぎ京都に尊攘堂を建設すると京都大学に寄贈。勤王志士の霊を祀るとともに、志士の史料を集めた。

 明治33年(1900年)2月26日、流感から肺炎となり死去。享年58。亡くなると勲一等旭日大綬章を受賞。

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