玉木彦助 (玉木彦介、玉木正弘)  玉木文之進の優秀な長男


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 玉木彦助は、長州藩士・玉木文之進の長男として、1841年5月17日に生まれた。名は正弘。字(あざな)は毅甫。

 吉田寅次郎の叔父でもあった父・玉木文之進は大組士40石取りの中堅武士で、1842年に松下村塾を創設。
 玉木文之進は、吉田寅次郎や親戚の乃木希典も厳格に教育した人物でも知られる。

 1855年に元服すると、父に従って相模に赴き江戸にて遊学した。
 従弟の吉田松陰とは仲が良く、帰国後は松下村塾で吉田松陰から学ぶ。
 吉田松蔭は逸材中の逸材として、玉木彦助を松下村塾の後継者と目していたとされる。
 吉田松陰が書いた「士規七則」は、この従弟・玉木彦助(たまき ひこすけ)のために残したものだ。

 → 士規七則の詳細はこちら

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 1862年、小田村伊之助に従い、京都、そして江戸へ赴いた。

 1863年、藩主・毛利敬親の世子・毛利定広(毛利元徳)の近侍に就任。
 毛利元徳の近侍には、のち江戸家老となる根来上総、戊辰戦争で活躍する楢崎頼三、山口藩参政や愛知県令となった国貞直人、奇兵隊高杉晋作、太田市之進(御堀耕助)もしかりであり、玉木彦助も近侍になるくらいでしたから、将来も期待されていたことでしょう。

 1864年、更に知識を広める為長崎に留学。
 1864年8月、禁門の変に破れた太田市之進(御堀耕助)、山田顕義品川弥二郎らが中心となって「御楯隊」が結成されると、玉木彦助は萩に戻ったあと御楯隊に入隊しました。藩の役人としては初の諸隊入隊であったと言われている。
 隊士約230名は三田尻に屯所した。

 1864年12月15日に、奇兵隊の高杉晋作が蜂起(功山寺挙兵)すると、潜伏していた海禅寺発ち、御楯隊も加わって長州藩兵(俗論党)と戦闘となった。
 
 1865年1月16日、美弥郡絵堂の戦い(美東町)で俗論党の軍と激戦なり、玉木彦助は重傷を負った。

 吉敷郡小郡の海禅寺に戻ったが怪我は重く、1月21日(20日とも?)、で自害した。享年25。

 明治21年に靖国神社合祀となり、同35年に贈正五位。

 (参考) Wikipedia

 →玉木文之進の自刃についてはこちら

 

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