来原良蔵 学識高い文武両道の達人も責任を感じで自決




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来原良蔵(くるはらりょうぞう)は、長門国阿武郡福井上村石原にて長州藩・大組(八組)の福原光茂の3男として、1829年12月2日に生まれた。
母は福原伊代(来原理右衛門の娘)。

幼い頃は福原冬嶺から学び、1841年に長州藩の藩校・明倫館に入り文武を兼修。
翌年末には、母・伊代の妹・利尾の夫で伯父の来原良左衛門盛郷 (大組) の養子となり、来原良蔵と改名した。

1851年2月、江戸に赴くと朱子学者・安積艮斎の私塾で学んだ。
また江戸在中の際、吉田寅次郎脱藩に協力した罪を問われて処分を受け、1852年には萩に戻っている。
1852年末に「先鋒隊」に入隊。

1853年6月に、浦賀沖にペリー提督黒船来航となると、再び江戸に登り、浦賀周辺の形勢を視察すると共に、当時江戸にいた桂小五郎と親交を深めた。
この時も、吉田寅次郎からは密航の相談を受けており、吉田松陰にとってはよき理解者だったようだ。

8月には森重武兵衛から水軍砲術を学んだ他、長州藩重臣で志を同じくする来島又兵衛周布政之助と協力関係を結んだ。

1854年1月、来島又兵衛と「忠義会」を結成。その後、相模国の沿岸警備にあたった。
1854年8月、浦賀奉行の与力・中島三郎助に入門して合薬製造掛となり、銃器の扱いを修練。
12月には先鋒隊から除隊している。

1855年3月に再び萩に戻るも、10月には再度江戸に行き、江戸番手・手廻組に所属して密用方右筆役、毛利一門の岩国領吉川家の内用掛を兼任した。

1856年3月に萩に戻ると周布政之助・松島剛三らによる嚶鳴社復興に加わり、藩祖・毛利元就らの記録編集を行っている。
10月には桂小五郎の妹・桂ハル(春子、治子)を妻に迎えた。長男・来原孝正、長女・来原經、次男・来原正次郎を設けている。
後に最後の内大臣となる木戸幸一は来原良蔵の孫に当たる。

1857年1月、再び相模国警備に向かい、作事吟味役を勤めた。
この時、部下として伊藤利助(後の伊藤博文)が来ると、気に入った来原良蔵は漢学や武士としてのたしなみを叩き込んだ。

冬の間、毎朝午前4時頃になると、馬に乗り提灯を携え、伊藤利助の小屋に来て熟睡している伊藤利助をたたき起こし、自ら小脇に体を抱えて自分の小屋に連れていき、ろうそくの光で詩経書経(中国最古の古典の一)を教えたと言う。
また「もし戦地において草履を求めることができないときはどうするつもりだ。それであるならば当然、普段から裸足で歩行する習慣をつけるべきだ。」と、寒い日でも草履をはかせず、常に裸足で外出させたと言う。
そして、才覚有と認めた来原良蔵は、伊藤利助に吉田松陰の松下村塾を紹介している。
来原良蔵の指導は非常に厳しかったが、一生忘れられない良い教育を受けたと後年の伊藤博文は、生涯に渡り最大の恩人として感謝している。


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1858年、萩に戻ると12月には御手当方内用掛に就任。そして伊藤利助らと長崎での長崎海軍伝習に加わりオランダ人から学ぶと、翌年の6月に戻った。

長崎海軍伝習所

1859年9月、明倫館助教兼兵学科総督に就任。
山田亦介らと体勢が古い長州藩の軍制改革を行って西洋兵学を取り入れ、軍制規則制定、教練の実行等、長州藩兵の近代化と強化に非常に大きな功績を挙げた。
11月には江戸に登り、有備館の文武諸業御用掛を勤めている。
軍制改革のため1860年5月に萩に戻った。
9月には御手当御内用掛として明倫館助教を兼ねた。

1861年6月には、洋式兵学者・中島名左衛門喜勝を明倫館へを招聘。

この頃、母方の従兄弟で「航海遠略策」を唱える開国派の重臣・長井雅楽と対立するも、後に和解し、公武合体の周旋を担った。
徳地宰判の民情を視察したあと、1862年2月、公武周旋のため肥後国熊本と薩摩国鹿児島へ出張している。

しかし長州藩の藩論が開国から攘夷に急展開し、3月に上京して久坂玄瑞らと長井雅楽を除くため奔走。
この長井雅楽暗殺が失敗して、未遂事件となると、攘夷論と開国論の間で藩内部が混乱した為、責任を取って切腹して詫びると申し出た。
しかし、拒否された為、既に死の覚悟を決めていた来島良蔵は、1862年8月に江戸へ登り、横浜の外国公使館襲撃を企てるも、計画を知った長州藩世子・毛利定広に「忠義の心から出たこととは分かっているが、今は暴発する時期ではないから自重して助けて欲しい」と諌められ、涙を流して「仰せの通りに」と謝罪。

心情的に追い詰められて、8月29日、長州藩江戸藩邸の自室にて切腹した。享年34。

桂小五郎への遺書には「忠義と思ってやったことが、すべて不忠不義となってしまい、自分を誤り人を誤らせた罪はのがれがたく、割腹してお詫び申し上げる。」と記載されていた。

遺体は芝の青松寺に葬られたが、明治15年(1882年)に松陰神社に改葬されている。

子息たちは木戸孝允(妻の兄)の養子となった。



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高田哲哉日本の歴史研究家

投稿者プロフィール

高田哲哉と申します。
20年以上、歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して史跡も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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  1. 2015年 10月 08日


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