下村善太郎 前橋の発展に大きく寄与した前橋建設の父


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 下村善太郎(しもむらぜんたろう)は、前橋の小間物商「三好善」下村重右衛門の子として1827年4月28日に生まれた。幼名は定之丞。

 16歳で妻・せいと結婚して下村善右衛門と称し、家業を継いたが、賭博や米相場に手を出して家業が傾き、妻・せいの兄・糸屋源兵衛の紹介を受けて、1850年9月に武蔵国八王子に移って再起を図った。

 1859年には横浜が開港し、八王子が生糸取引の中継地となったことで、買い付けた生糸を横浜の仲居屋重兵衛に売り、生糸商として成功。
 前橋を出た時持参した6両は、夫婦で奮闘した結果10000両以上になったと言う。

 父の死後、1863年に前橋に帰郷すると、糸繭商として外国取引を開始し、早飛脚を使い、他の糸商より1日早く横浜の糸相場を把握するなどした結果、大富豪となった。

 そして川越藩主の前橋帰城に伴う前橋城再築に多額の寄付金を納め、1866年には生糸改所取締となり、また永年苗字帯刀を許された。

 明治維新後はその財力で前橋の発展に貢献。

 利根川の架橋や桃井小学校の前身、十八郷学校の校舎新築に多額の寄付を行い、1874年(明治7年)の前橋本町大火災では義援活動を行っている。

 群馬県庁の前橋誘致運動「前橋25人衆」の先頭にも立ち、日本鉄道の前橋延長運動にも寄与した。

 また第三十九国立銀行の経営危機を救い、県知事・楫取素彦臨江閣建築にも寄付をするなどしている。

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 特に前橋への群馬県庁誘致活動においては、1876年(明治9年)の群馬県仮県庁移転のための県庁舎建設のため1万円を寄付したのをはじめ、私財を投じて尽力した。
 一概に換算できないが、明治初期の1万円は、現在の20億円に相当するとも言われている。

 「前橋二十五人衆」と称されるのはこの下村善太郎の他、勝山源三郎・勝山宗三郎・須田傳吉・大島喜六・市村良平・江原芳平・竹内勝蔵・横川重七・松井林吉・鈴木久太郎・荒井友七・荒井久七・深町代五郎・八木原三代吉・筒井勝次郎・中島政五郎・田部井惣助・武田友七郎・横川吉次郎・生方八郎・桑原壽平・太田利喜蔵・久野幸人・串田宗三郎。 
 前橋を関東一の都市にするとして、下村善太郎を筆頭に、前橋の為に財産を惜しみなくつぎ込んだ。 

 明治9年には渋沢栄一らと蚕種を海外輸出し、生糸の品質を厳格にする生糸改所を共同で建設、立川町にも製糸工場の昇立社を建てている。

 明治22年に前橋町の議員になったあと、1892年(明治25年)市制施行の際には周囲から推されて初代の前橋市長に就任。 
 しかし、体調を悪くし1893年(明治26年)6月2日に辞任した2日後である6月4日に死去した。享年67。

 墓は前橋市紅雲町の竜海院にある。

 近代前橋建設の父として業績を称えせれ、1910年(明治43年)に前橋公園に銅像が立てられたが、太平洋戦争に伴い1943年(昭和18年)に供出。
 その後、1983年(昭和58年)の「あかぎ国体」の際に、前橋市役所前に銅像が再建された。

 前橋市と萩市は友好都市となっている。

 (参考) Wikipedia

 

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