松浦松洞 (松浦亀太郎)  吉田松陰の肖像画を残した画伯


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 松浦松洞(松浦亀太郎)は、萩の松本にて1837年に生まれた魚商人の子。
 名は温古、字は知新、後無窮(むきゅう)と改める。通称を亀太郎という。松洞はその号。

 幼い頃から絵を描くのが好きで、四条派の羽様西涯(はざませいがい)に師事。絵画を志して京都に赴くと小田海僊から学んだ。
 その後、萩に戻ると、20歳の時(1856年)、自宅から近かった吉田松陰松下村塾に入門。
 当時の画家は「漢詩」を勉強する必要があった為に松下村塾に入ったのだが、画家になるよりも、尊王攘夷運動にも参加する志士となった。。
 吉田松陰は「才能があって気概もあり、普通とは違う優れた男子だ」と松浦松洞を称している。
 そして、1856年頃から、吉田松陰の肖像画を描き始めたとされる。また、烈婦の登波・僧の月性・秋良敦之助・木原松桂・西田直養・伊藤静斎・竹院等を描いている。

 なお、松浦松洞(まつうらしょうどう)は長州藩士・根来主馬の家臣として仕えた。

 1858年、江戸に出ると吉野金陵の塾で学び、江戸の情勢を吉田松陰に報告もしている。9月になると幕吏に従いアメリカへの渡航を試みたが、アメリカには行けず翌年2月に帰国。
 1859年、安政の大獄により、吉田松陰の江戸護送が決定すると、萩にて肖像画(絹本着色吉田松陰自賛肖像)を描いた。(現存は6点)
 妹の婿・小田村伊之助の勧めで、吉田松陰は複数あった肖像画に、賛文を書き入れて江戸へ向かった。

 

 久坂玄瑞高杉晋作に充てた手紙では「僕は獄におられる先生をのぞき見た。からだはやせてとげとげしく、髪が乱れて顔を覆っていた」と心配している。
 しかし、松浦松洞が描いた吉田松陰の肖像画は、やつれておらず、師への尊敬の念が見受けられる。
 このように制作された吉田松陰自賛肖像は、形見として門下生や吉田松陰の家族の元に届けられた。

 1862年、久坂玄瑞・前原一誠ららと上洛し、公武合体・開国派であった長州藩士・長井雅楽を暗殺する計画をした。
 しかし、ある人(不詳)から翻意を促されると憤りを感じて、1862年4月13日に京都粟田山にて切腹。26歳の生涯を終えた。
 これは、松下村塾で最初の殉難となっている。

 (参考) 山口きらめーる

 

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