野山獄と岩倉獄とは?  長州藩の牢獄


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 長州藩の牢獄は「野山獄」と「岩倉獄」の2つが有名だが、それぞれの特徴や違いをご紹介したい。

野山獄

 野山獄は、長州藩の士分(武士関連)の者を収容する上牢。
 元々は、長州藩の大組藩士禄高200石・野山六右衛門の屋敷であったが、1645年9月の夜、道路の反対側に屋敷がある大組藩士禄高200石・岩倉孫兵衛が酒に酔い、野山六右衛門の屋敷に斬り込んで、家族を殺傷するという事件が起きた。
 この時、長州藩は野山宅に岩倉孫兵衛を幽閉し、後に斬首の刑に処した。
 しかし、喧嘩両成敗ということで、野山家・岩倉家の両家は取り潰しとなり、屋敷は没収されたのだ。

 長州藩はその屋敷跡を牢獄に建て替えて活用し、切り込んだ岩倉側に非があるので、士分の者を収容する上牢を「野山獄」として、士分以外の庶民などを収容する下牢を「岩倉獄」としたのが始まり。
 野山獄は、6房が中庭を挟んで向かい合う、12室の独居房となっていた。

 

 独房は3畳ほどの大きさで、食器などの生活用品・寝具、小さい机や筆記用具なども置けた。

 吉田松陰が最初に投獄された頃には11人が捕われており、最長老は大深虎之允で獄中生活約50年と言う終身刑の老人がいた。ついで獄中生活17年の弘中勝之進、14年の岡田一廸などが古い。
 なお、吉田松陰が入獄した際、罪により藩の命で牢獄に入った士分は2人だけで、他の9名は家族などにより自主的な申し出で借牢として入った者で処罰された罪人ではなかった。
 吉田松陰も形式上、実父・杉百合之助から借牢願いが出されていた。
 この「借牢」は、家族の許可がないと出獄できず、いわゆる刑期は無期限であったと言う。
 これが、入ったは最後、出る事が許されなかったと言う野山獄の由縁である。

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 ただし、野山獄では囚人どうしでの交流も制限はなく、拷問なども無いなど、環境は比較的良かったようで、部屋の出入りは自由で親族から食べ物の差し入れも自由であった。
 しかし、刑期の終わりもなく、何もする事がない罪人は、毎日、希望もない日々をただ過ごしていたと言う。
 そんな折り、新入りの吉田松陰が皆を中庭に呼び出すと、自己紹介を始めたと言う。こうして罪人どおしの交流が始まった。

 また、獄吏(看守)の福川犀之助らの配慮もあり、投獄された吉田松陰も自由に書物を読むことができ、講義も許され、このようにして、吉村善作富永有燐高須久子河野数馬大深虎之丞志道又三郎井上喜左衛・栗屋与七らと吉田松陰は獄中でも交流できたのだ。

 ただし、罪により斬首などになった場合には、この野山獄にて処刑されることが多かった。

岩倉獄

 岩倉獄は、長州藩内の町民・農民といった藩籍を持たない庶民が投獄された下牢。
 野山獄のように個室ではなく、3つある大部屋に収監された。

 武士階級が対象の野山獄に比べ、岩倉獄は環境が劣悪で、着物や食べ物も満足に支給されなかったため、吉田松陰と一緒に黒船に密航しようとした、金子重輔は獄内で病死している。

 

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