金子重輔 (金子重之輔) 下田で吉田松陰と共に黒船での密航を企てる


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 吉田松陰誕生地にある吉田松陰の銅像の横で、膝をついて仕えているのが金子重輔

 金子重輔(かねこしげのすけ)は、1831年2月13日生まれの長州藩士。名は金子貞吉。別称に金子卯之助、金子直三郎、金子重之輔、金子重之助。
 父は、長門国阿武郡紫福村の商人・茂左衛門で、母はつるの長男として生まれた。

 幼少の時から白井小助に学び、その後は土屋蕭海からも学んだとされる。

 1853年、家業を嫌って江戸に出ると、長州藩邸の雑役の仕事をした。
 実家は染物業であったが、足軽の金子家の養子となり、長州藩士・久芳内記の組下の足軽となった。
 同年1853年、宮部鼎蔵の親友である
熊本藩士・永島三平の紹介で、2歳年上の吉田松陰と出会うと人柄に惚れ、得難い師と仰ぎ、藩邸を出て鳥山新三郎の家で吉田松陰と生活するようになった。

 吉田松陰の密航計画を知り、金子重輔は「先生ひとりではやれない」と共に渡米を決意。
 最初は長崎でロシア船に乗り込もうとしたが失敗。
 その後、1854年、アメリカの東インド艦隊が再来日して日米和親条約が締結されると、宮部鼎蔵ら友人達に別れを告げ、2人で偽名を使い江戸を出て伊豆に向かった。
 当時の日本では、海外に渡航する事は国禁であり重罪であったが、強い国になる為には海外の進んだ技術や文化を学ぶ必要があるとして、伊豆では鳥山確斎の私塾に寄宿して、世界地誌を学びながら密航の機会を窺った。
 そして、2人で海岸につないであった漁民の小舟を盗んで、伊豆下田港に停泊中のポーハタン号へ小舟にて赴き、乗船してマシュー・ペリー提督らに密航を訴えた。
 しかし、密航は拒否される。
 ペリー提督は、日米和親条約が結ばれた直後であり、江戸幕府への配慮からか、2人の乗船・密航を拒否したのである。
 この時、吉田松陰と金子重輔が乗ってきた小舟は、彼らの荷物を乗せたまま漂流してしまい、アメリカのボートで福浦の浜まで送ってもらった。

 金子重輔は「いさぎよく、切腹しましょう」と吉田松陰に述べたとされるが、「死んではならぬ。なんのこれしきのこと」と吉田松陰は答えたと言う。
 小舟が海岸に辿りつくと、荷物から密航の企てが江戸幕府に露見されてしまう事から、2人はその前に下田町隣村の名主に自首。

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 2人は下田奉行所で取調べを受けた後、吉田松陰と金子重輔は伝馬町の牢屋敷に送られた。
 伝馬町の獄で、2人は別々に収容され、金子重輔は藩籍を離れていた為、身分の低い者を収容する無宿牢に入れられた。
 その後、環境が悪い百姓牢に入れられると、金子重輔の身体は皮膚病で化膿し、弱り果て肺炎も併発したのだ。

 流された小船に残した荷物からは、佐久間象山が吉田松陰に送った送別の詩等がみつかり、密航を煽動して共謀したと言う罪で、佐久間象山も逮捕されている。

 吉田松陰と金子重輔は、9月になり幕吏によって唐丸籠で萩へ送還された。
 護送中、宿舎に泊まる際には、秋から冬と言う寒い季節にも拘わらず、宿の土間に置かれた籠の中で過ごすと言う過酷な物だったようだ。
 この時、金子重輔は下痢がひどい状態であったが、籠の中からトイレに行く許可も出ない状況で、汚物にまみれていたと言う。

 萩に到着すると、吉田松陰は士分の者が入る野山獄へ、金子重輔は士分以下の者が入る劣悪な環境の岩倉獄へ収容された。

 衰弱した金子重輔は、1855年1月11日、岩倉獄で病没。享年24。
 墓所は山口県萩市北古萩町の保福寺。

 吉田松陰は野山獄において、金子重輔追悼の獄中句会を開いて、霊を弔ったと言う。
 また、吉田松陰が出獄するまでの1年間、食費を節約して金百疋を貯め、金子重輔の母・金子ツルら遺族に送っている。

 → 金子ツルについてはこちら

 

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