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福川犀之助(1834年生まれ)は長州藩士で、名は縮、字は守約。
萩の野山獄の司獄(獄吏、看守)を務めていた。大深虎之丞・吉村善作・富永有燐や高須久子らが野山獄に捕われていた。
安政元年10月、吉田松陰が江戸から野山獄へ送られると、その言行をみているうちに尊敬するようになり、獄中での読書や講義の自由などを許可したと言う。
翌年には弟・高橋藤之進と共に弟子の礼をとった。
吉田松陰が、獄中にありながら読書・著述・教育に力を入れることができたのは、この福川犀之助の融通に寄ることが多いと考えられる。
吉田寅次郎の妹・杉文に面会を特別許したり、禁止されていた夜間の灯火使用も、福川犀之助が許していたと言う。
安政の大獄により吉田松陰が1858年12月に再び野山獄に入ると、1859年5月には江戸送致が決定した。
この時、久坂玄瑞の提案を受けて福川犀之助は独断にて、出発の前夜である5月24日に、吉田松陰を実家の杉家に帰らせ、家族や門人などに告別する機会を与えた。
吉田松陰は世話になった福川犀之助に「吉田松陰自賛」(福川本)を贈っている。
のち、吉田松陰への対応が発覚して、1860年10月に「遠慮」の処分を受けた。
このように、吉田松陰が獄中でも自由に活動できたのは、福川犀之助の功績が大きいが、吉田松陰の人柄が福川犀之助を動かしたとも言えるだろう。
明治18年9月8日没。52歳。
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遠慮の処分とは
今でも仕事で誰かに迷惑を掛ける行為を行ったりした場合に「処分」と言うものがあり、例えば訓告・戒告・訓戒・減給・出勤停止・降格・懲戒解雇があるが、江戸時代の諸藩などでも処分がもちろんあった。
藩によって内容が若干異なるが、罪の軽い物からだと概ね下記の通り。
叱り・遠慮・科料・蟄居・召籠・永召籠・降格・役儀取揚・知行取揚・家財没収・閉門・所追放・引肆・梟首獄門
福川犀之助が受けた処分は「遠慮」であることから、そんなに大きな処分を受けた訳ではなかったことが伺える。
ただし、記録に残るのでのちの昇進などに影響はしただろう。
・ 野山獄について も是非ご覧ください
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2015年 2月 13日トラックバック:高須久子 野山獄での吉田松陰との俳句
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