林忠崇とは 脱藩大名で最後の大名 請西藩主

林忠崇

林忠崇(はやし-ただたか)は、上総・請西藩主である林忠旭の5男として、幕末の1848年に生まれました。
1万石となる請西藩(じょうざい-はん)と言う場所は、千葉県木更津市請西でして、真武根陣屋(まふねじんや・請西陣屋)が置かれていたそうです。
そもそも、林氏(三河・林氏)は、松平家(徳川家)譜代の家臣で、信濃・林城主であった、小笠原清宗(1417年~1478年)の次男・林光政を先祖とします。
江戸時代の後期までは、代々旗本でした。
旗本(はたもと)と言うのは、将軍・徳川家の直臣(直属の家臣)のうち、石高が1万石未満の武士と言う事です。
ところが、文政8年(1825年)、江戸幕府11代将軍・徳川家斉から可愛がられた林忠英が、貝淵藩として1万8千石の大名に列しました。
これにより、三河・林氏は譜代大名になった訳ですが、のち1万石に減らされると陣屋を移して請西藩になっていました。



幼い頃から聡明であったとされる林忠崇は、5男で家督を継げる立場ではなかったのですが、兄の林忠貞などが早世します。
代わって、請西藩の藩主になったのは、父の弟である林忠交でした。
この林忠交も優秀だったようで、1857年には大番頭、1859年には伏見奉行となり、1866年に、坂本龍馬を捕まえようとした寺田屋事件も主導したようです。
しかし、伏見奉行在任中に23歳の若さで亡くなったことから、家督は林忠崇が継ぐことになりました。

黒船来航などにより、揺れる幕末ににおいて、文武両道でもあった林忠崇は、将来、幕府を背負っていく人材として期待されたと言います。
しかし、薩摩の西郷隆盛、長州の桂小五郎らによって倒幕の機運となると、将軍・徳川慶喜は1867年に大政奉還を行います。
そして、鳥羽伏見の戦いとなり、新政府軍と旧幕府軍は「戊辰戦争」となりました。

その時、請西藩では、新政府に従おうとする恭順派と、新政府軍(官軍)に徹底して戦おうと言う抗戦派と、藩内の意見が分かれます。
そんなところに、江戸城開城の直前に、旧幕府軍の伊庭八郎や人見勝太郎らが、木更津にやってきて、林忠崇に援助を求めました。



21歳前後であった林忠崇は、旧幕府軍として徹底抗戦をしたかったようですが、反対意見もあったため、ある決断をします。
それが「脱藩」です。
脱藩(だっぱん)と言うのは、藩の許可なく、藩の領内から外に出る事で、脱藩は重罪でした。
わかりやすく申し上げますと、藩を日本と立て得るならば、日本政府の役人が、自分の仕事を放棄して、許可なく海外に行ってしまったと言うと、わかりやすいでしょうか?
その脱藩行為を、藩主である林忠崇が、自ら行ったと言う事で、脱藩大名と呼ばれる由縁となっています。
なんでも、屋敷に火を放って、賛同する藩士70名+人足100名らと、5000両以上の軍資金、400挺以上のライフル銃、大砲2門にて旧幕府軍の遊撃隊(ゆうげきたい)に合流したと言います。
そして、箱根山崎の戦いなどで新政府軍と戦いました。
しかし、旧幕府群は敗北し、林忠崇らは旧幕府軍の軍艦にて奥羽・仙台へと後退すると、会津鶴ヶ城では松平容保とも面会しています。
ただし、頼られていた仙台藩も新政府軍に恭順したことから、林忠崇は仙台にて新政府軍に降伏しています。
徳川慶喜は駿府70万石にて謹慎処分となり、徳川家じたいは存続を許されたため、大義名分は果たしたと判断したともされます。
ただし、納得できない遊撃隊の生き残りは、榎本武揚の榎本艦隊と一緒に蝦夷地に渡り、五稜郭などで最後まで戦いました。



新政府は藩主自らの脱藩して戦ったのを反逆と見なしており、林家は大名家では最後となる改易処分(所領没収)となりました。
肥前唐津藩に預けられて謹慎しています。
明治4年、特赦を受け家名復興は認められたものの、地位や財産を失っていた林忠崇の生活は困窮を極めます。
請西村の石渡金四郎から、離れの建物を借りて、農民となりました。
見かねた旧幕臣・大久保一翁らの計らいで、その後、東京府(今で言う東京都)の下級役人になりますが、2年後には職場での意見が合わないと言う事で辞職し、函館に渡ると商店の番頭を務めています。
しかし、その商店が倒産したため、今度は神奈川県座間市にある龍源寺の世話を受けました。
明治13年(1880年)には、大阪府西区に移って書記の仕事を得ています。
その後、旧家臣らが勝海舟に相談するなどして、林家の再度の家名復興が認められて、林忠崇は華族の一員となり、従五位に叙されました。

その後、宮内省東宮職庶務課に数年勤務しましたが、病気となり明治29年(1896年)に辞職します。
病気が快復したあとには、明治32年(1899年)から、日光東照宮の神職として復帰しました。
その仕事も明治35年には辞めて帰郷したあと、大正4年(1915年)からは、次女・ミツの世話を受けて余生を送ったと言います。

広島藩主の浅野長勲が昭和12年に死去すると、かつて「大名」を務めた人物で、生きている旧大名は、林忠崇、ただひとりとなり、新聞社などの取材も受け「最後の大名」として報道されていたと言います。

また、戊辰戦争における請西藩の戦没者の追悼式も主催しました。

林忠崇は、長生きしており、昭和16年(1941年)1月22日、次女ミツが経営していたアパートの部屋にて病死しました。享年94。



亡くなる直前、辞世の句を求められると、戊辰戦争で降伏するときに詠んだので「今は無い」と言い残したと言われています。

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