長谷川宣以(長谷川平蔵) 鬼平と呼ばれたが江戸っ子には愛された粋な生涯

長谷川宣以(長谷川平蔵)



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長谷川宣以(はせがわ-のぶため)は江戸時代中期、旗本の長谷川宣雄の長男として生まれる。
火付盗賊改方(ひつけとうぞくあらためがた)の長官を務め、時代劇の鬼平犯科帳の「鬼平」こと、長谷川平蔵として馴染みのある人物である。
平蔵の長年務めた火付盗賊改方とはどんな役職か、また現代にも支持される平蔵は、どんな生涯を送ったのか。

火付盗賊改方とは

火付盗賊改方は、当時重罪に当たる放火犯や強盗犯や賭博犯を取り締まった役職である。
より細かく解説すると、幕府には有事の際に将軍を護る番方(武官)がおり、その中に先鋒を担当する先手組という役職があった。



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先手組の役目として弓組、鉄砲組があり、そのトップに先手弓頭、先手鉄砲頭がいた。
その各組頭の中から加役という形で火付盗賊改方が組織された。(本役は先手組頭)
当然、本来は番方であるため、火付盗賊改方は性格上、武力で犯人を取り締まることができた。
一方の混同されやすい町奉行は役方(文官)であったため、凶悪な事件ほど火付盗賊改方が担うことになるので捜査も荒く行われ、また非常に激務であったという。
江戸の町は治安が悪かったと言ってよい。

若き頃の平蔵

平蔵の幼名は銕三郎(てつさぶろう)、平蔵も実は通称で、父・宣雄も同じ平蔵を通称としていた。
宣雄も火付盗賊改方の長官を務め、その後京都西町奉行に抜擢されるなど出世した(息子の宣以より)人物だ。
そんな宣雄と長谷川家の家女との間に生まれたのが平蔵であるのだが、誕生に関することは文献上は明らかではない。
平蔵は、宣雄の正妻(平蔵の義母)にいじめられ、というのは物語上の話かもしれないが、風来坊ぶりは記録に残っており、「本所の銕」と呼ばれていた。
そんな平蔵も、安永2年(1773年)宣雄死去に伴い、長谷川家の家督を継ぐ。
家督を継いでからの平蔵は、しばらくまだ放蕩生活をしていたらしい。
いつしか、父が貯めた金も使いきり、これではいけないと思ったかはわからないが、それからの平蔵は人が変わったように昇進の道をかけ上り、天明6年(1786年)には番方の最高位である先手弓頭に任ぜられ、加役として火付盗賊改方の長官に抜擢されのは翌年の42歳の時であった。

人足寄場の設置

人足寄場(にんそくよせば)とは幕府が江戸、石川島に設置した軽犯罪者や無宿人を教育的に社会復帰を促す収容施設である。
人足寄場の設置は、寛政の改革の政策のひとつではあるが、平蔵が松平定信に提案し実現したものだ。
当時は、天明の大飢饉の直後で田畑は荒れ果て、農民は農村を捨て、その多くが江戸にも流入してきていた。
しかし無宿人の多さは凄まじく、ほとんどが定職に就けず、また食料も少なければ治安悪化も常態化している有り様であった。
そういった者の犯罪者化を防止するのは一番の目的だが、手作業の職業訓練で技術を身に付けさせた他、講師を迎えての精神講話も実施され、手当てとして報酬も支払われるなど手厚い支援で更正を促した。
平蔵は放蕩生活時代に前科者等との付き合いの中で、ただの懲罰では意味がないことはわかっていたはずで、性格的にも合理的な一面もあったのではないかと思う。

鬼平としての実績

平蔵は、犯罪捜査での活躍も目覚ましかった。
寛政元年(1789年)には、真刀徳次郎という大盗賊を捕らえている。
徳次郎は、関東や東北にかけて強盗を繰り返した大物で、その配下は数百人いたとされる。
徳次郎自身も、剣の使い手であったため捜査は大掛かりに行われ、中山道大宮宿で捕縛に至っている。
また、平蔵は普段から役宅に盗賊等のならず者を出入りさせ、食事や衣服も与えたりして捜査に必要な情報を得ていたという。
こういった平蔵の特殊な方法は、放蕩生活で培ったものであり、平蔵でなければできないことは言うまでもない。
平蔵は、凶悪犯からは鬼平と呼ばれ恐れられていたが、江戸っ子には「本所の平蔵さま」と呼ばれ親しまれていた。
本所の銕から本所の平蔵さまへ、人は変わるものである。

鬼として人間として

平蔵は、町奉行への昇進を望んだが結局叶わず終わってしまった。
本来、火付盗賊改方の長官の任期は短く、ほとんどが3年までで平蔵の場合は、死去の直前まで8年務めている。
実際、平蔵を火付盗賊改方の長官に任命したのは松平定信であるが、それまで至るに先手弓頭まで引き立てたのは田沼意次だった。
平蔵の奔放な性格が意次には合ったが、白い河に例えられるほど優等生の定信には、平蔵の行動は目に余ったに違いなく、陰では山師扱いもしていた。
とはいえ、平蔵の実績は無視できないので、8年間留め置いた形になったのだろう。
平蔵は、人足寄場の設置にあたって、石川島の敷地に稲荷社を勧請した。
それは収容者の更正を願ってのもので、現在府中刑務所の隣接地に移転され「寄場稲荷」と呼ばれ現存し、平蔵の思いを今に受け継いでいる。
その小さなお社に、人間としての平蔵の部分が少しだけ垣間見た。


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長谷川宣以、寛政7年(1795年)5月19日、江戸屋敷で死去、享年50歳。
戒行寺の本堂前に供養塔がある。(新宿区須賀町9-3)

(寄稿)浅原

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