山岡鉄舟 幕末の剣客にして江戸城開城に貢献した幕臣


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 山岡鉄舟(やまおかてっしゅう)は、江戸本所に住む蔵奉行・木呂子村の知行主である小野高福の4男として、1836年6月10日に生まれた。
 母は塚原磯と言う、常陸の鹿島神宮神職・塚原石見の2女で、先祖には塚原卜伝がいる。

 9歳から、久須美閑適斎より神陰流(直心影流)剣術を学んだ。

 1845年、飛騨郡代となった父に従って飛騨高山で過ごした。
 弘法大師流・入木道51世の岩佐一亭から書の神髄を学び、15歳で52世を受け継ぐと「一楽斎」と号している。
 また、父が招いた井上清虎より北辰一刀流剣術を学んだ。

 1852年に父・小野高福が死去すると江戸に戻り、井上清虎の援助を受けて1855年に講武所に入り、千葉周作らから剣術を、そして山岡静山からは忍心流槍術を学んだ。

 その山岡静山が急死すると、山岡静山の実弟・山岡謙三郎(高橋泥舟)らから頼まれて、山岡静山の妹・山岡英子(ふさこ)と結婚し、山岡家の婿養子となり山岡鉄太郎と称した。

 1856年、剣道の腕は随一だったことから講武所の世話役となる。

 1857年、清河八郎ら15名と共に尊王攘夷を掲げた「虎尾の会」を結成。
 アメリカの通訳・ヒュースケンを斬ったのも、虎尾の会のメンバーだとされ、幕府からにらまれた清河八郎は、圧力を交わすために、1862年、山岡鉄舟を通じて、松平春嶽京都の警護を建白。
 江戸幕府は松平忠敏のもと浪士組を募集し、山岡鉄舟は浪士組の取締役となった。
 この時、浪士組には芹沢鴨・近藤勇山南敬助土方歳三・永倉新八・沖田総司・原田左之助・藤堂平助・平山五郎・野口健司・平間重助・新見錦・阿比類鋭三郎・井上源三郎・沖田林太郎らも参加している。

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 1863年、将軍・徳川家茂の上洛に備える為、浪士隊は先行して京に上洛
 京都に到着した夜、清河八郎は、浪士たちを集めると「本当の目的は将軍警護でなく尊王攘夷の先鋒にある」と宣言したため、間もなく清河八郎の動きを警戒した徳川幕府から浪士組は江戸に呼び戻した。
 この時、芹沢鴨・近藤勇・土方歳三らは攘夷に反対し、京都・壬生に残ると、のち新選組を結成している。
 山岡鉄舟は浪士組と共に江戸に戻り、清河八郎は浪士組を攘夷の為に動かそうとしたが、1863年4月13日、幕府の刺客である佐々木只三郎・窪田泉太郎など6名によって麻布一ノ橋で討たれ首を切られた。享年34。

 その後、山岡鉄舟も捕えられて謹慎処分となった。

 鳥羽伏見の戦いで勝利した新政府軍が江戸に近づくと、1868年、精鋭隊歩兵頭格となっていた山岡鉄舟が、徳川慶喜の意を受けると、その思いを命に代えて届ける使者となり、大総督府の西郷隆盛に会う為に駿府に赴いた。
 しかし、いきなりは合えないだろうと、まずは幕臣の勝海舟を訪問すると、勝海舟は初対面だったが山岡鉄舟の事を認め、薩摩藩士・益満休之助を護衛につけて大総督府に向かわせた。
 西郷隆盛は山岡鉄舟と会談すると、その真摯に切々と訴える態度に感じ入り、交渉に応じた。
 内容は江戸城の降伏条件であったと言う。

 このような山岡鉄舟の事前工作のおかげで、田町の薩摩藩江戸藩邸にて勝海舟と西郷隆盛の江戸城開城交渉がスムーズに行われるに至った。
 その後、若年寄格幹事となっている。

 明治維新後は、徳川宗家を継いだ徳川家達に従って駿府に入ると、静岡藩権大参事に就任。
 その後も、茨城県参事など歴任すると、岩倉具視や西郷隆盛から頼まれて天皇の侍従として10年間、明治天皇に仕えた。

 ある日、明治天皇が酒に酔い、山岡鉄舟に侍従と相撲を取ったと言う。
 普通なら天皇に勝ちを譲る所だが、山岡鉄舟は横にかわし、天皇は後ろに倒れてしまわれた。
 山岡鉄舟は「陛下と相撲を取ることなど、この場ではおかしな話で、また、わざと倒れるのは誰の為にもならない。またもし、誰かが怪我をすれば陛下はどれほど後悔遊ばされるか。」と論したため、明治天皇は「私が悪かった。」と仰せになったと言う逸話もある。

 明治20年には子爵。
 明治23年、一刀正伝無刀流を起こした。

 明治21年7月19日、皇居に向かって結跏趺坐のまま絶命。死因は胃癌で、享年53だった。

 墓所は幕末に殉じた人々の菩提を弔うため自身が建立した谷中の普門山全生庵。

 

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