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永倉新八(ながくら-しんぱち)は、松前藩の江戸定府取次役・長倉勘次(150石)の次男として、1839年4月11日に、江戸の上屋敷にて生まれた。
兄は夭逝している。
8歳の頃には既に竹刀を握り、1846年、神道無念流剣術道場「撃剣館」を主宰していた岡田利章の門を叩く。
1850年に岡田利章が亡くなると、引き続き岡田助右衛門から学ぶと、15歳の時に最初の免許を得る。
そして、18歳で本目録を得て、元服してからは長倉新八と称した。
1856年、19歳で脱藩すると江戸本所亀沢町の百合元昇三の道場で剣を学んだ。
※本姓は長倉で、永倉は脱藩後の自称となっている。
※松前藩は、剣術の道こそ武士の本懐として、追っ手を向かわせず見逃していたともされる。
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25歳のとき、松前藩の浪人・市川宇八郎(芳賀宜道)と共に剣術修行の旅に出たが、これは自分の腕を試すため、江戸を出て各地で道場破りをしたのだ。
そして、江戸に戻ると伊庭秀業の門人・坪内主馬に腕を認められて、師範代を務めた。
その後、実戦剣術として名を上げてきた天然理心流・近藤勇の道場「試衛館」を訪れると、食客となっている。
新撰組にてのちに永倉新八の伍長となる島田魁は、坪内道場の弟子であったと言う。
1863年、清河八郎の発案による浪士組の募集に対しては、近藤勇・土方歳三らと参加して京にのぼった。
新選組が結成されると、二番隊の隊長や撃剣師範を務めるなど、要職務めている。
新選組の阿部十郎は「一に永倉、二に沖田、三に斎藤の順」と、剣術の腕は沖田総司よりも進んでいたと証言。
このように新撰組で最も強かったと言われる剣士であり、ほとんどの戦闘に参加している。
しかし、芹沢鴨の暗殺のときだけは、刺客に選ばれておらず、計画さえ知らされていなかったと言う。
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1864年、池田屋事件の際には、近藤勇・沖田総司らと池田屋に突入。
沖田総司が病に倒れ、藤堂平助が負傷して離脱するなか、永倉新八は左手親指に深い傷を負い、土間のたたきに当たって刀が折れる。
防具もボロボロになったと言うが、落ちていた刀を使うなどし、4名を討ち取る奮戦をしたと言う。
この池田屋事件で新選組の名が天下に轟くと、近藤勇や土方歳三らの我儘な振る舞いに憤り、永倉新八や斎藤一、原田左之助、島田魁、尾関政一郎、葛山武八郎らは、脱退覚悟で近藤勇を局長と認めるも、非行五ヶ条を会津藩主・松平容保へ訴え出て、一線を画した。
※松平容保の取り成しによって和解している。
このように永倉新八は信念を曲げず、必要であれば局長・近藤勇さえ批判する気概のある男だったと考えられる。
以後、近藤勇や土方歳三らと対立するも、徳川幕府から見廻組格70俵3人扶持として近藤勇らと共に幕臣に取り立てられている。
また、京では島原亀屋の芸妓・小常を妻としたが、娘・磯子が産まれたあと死別した為、磯子は京から去る際に、小常の姉に預けられた。
なお、乳母・岡田貞子が機転を利かし、生後間もないお磯を永倉新八と面会させた際、50両を渡し江戸・松前藩藩邸の従兄・長倉嘉一郎を頼るよう申しつけている。
1867年、油小路事件では、原田左之助らと共に新選組を離脱した、御陵衛士の伊東甲子太郎、藤堂平助らを暗殺。
1868年、鳥羽・伏見の戦いでは、土方歳三が新選組の隊長代行となったため、永倉新八が副長代行を勤めた。
甲冑を脱いで身軽となった状態で、抜刀して突撃すると言う「決死隊」を募っての攻撃も敢行したが、劣勢となり大阪城へ退却した。
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江戸に戻ると、近藤勇らと甲陽鎮撫隊に参加して、新政府軍と甲州勝沼にて戦うもが敗れ、その後、江戸に戻ると近藤勇らと離れて、自分の道を貫く。
松本良順から300両の軍資金を借り入れ、かつての剣術仲間で旧旗本・芳賀宜道を誘って靖兵隊(靖共隊)を結成。
新撰組を脱退した原田左之助、林信太郎、前野五郎、中条常八郎、松本喜三郎、矢田賢之助らが合流し約100名となる。
そして、北関東にて新政府軍に対抗したが戦局は不利で、米沢藩士・雲井龍雄の庇護を受け米沢藩に潜んでいた際に、会津藩の降伏を知り、江戸に帰還して12月に松前藩に自首
明治2年2月に家老・下国東七郎の計らいで松前藩士(150石)として、帰参が認められた。歩兵のフランス式練兵を担当している。
なお、永倉新八の大叔母・長倉勘子が、第12代の松前藩藩主・松前資広の愛妾として、正妻に次ぐ寵愛を受けていたことも、この寛大な処置になったものと推測する。
こうして、永倉新八の戦いは終わった。
明治4年(1871年)、家老・下国東七郎の仲介により、藩医・杉村介庵の娘・きね(よね)と結婚。
婿養子としてなって、松前に入り一男一女をもうけた。
明治6年(1873年)、家督を継ぐと杉村治備(のち、杉村義衛)と改名。
その後は北海道の小樽へ移住し、警察官僚・月形潔の招きを受けると、明治15年(1882年)から4年間、樺戸集治監(刑務所、月形町)の剣術師範を務め、看守に剣術を指導した。
退職後は東京牛込にて剣術道場を開いている。
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数少ない新選組の生き残りとして、新選組の復権につとめ、明治9年、徳川家茂の元侍医・松本良順と近藤勇や土方歳三の墓(寿徳寺境外墓地)を建立している。
明治27年、日清戦争が勃発すると、55歳の永倉新八は抜刀隊に志願したが、同様に志願した元会津藩士・山川浩陸軍少将と同様に「お気持ちだけ」と断られている。
蛤御門の変があった頃、西郷隆盛と面識があったようで、明治31年に上野に建立された西郷隆盛像を見て「本人像とは異なる」と語っているが、西郷隆盛の妻・糸子も同様の発言をしている。
明治32年(1899年)、妻と子が小樽市内で薬局を開いていたため、再び小樽に転居した。
明治33年、京に残していた娘の磯子は、関西の女役者・尾上小亀となり、そののちに再会している。
明治38年(1905年)から小樽市緑1丁目に転居したあと、明治42年(1909年)7月には小樽市花園町に住んだ。
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そして、永倉新八の噂を聞きつけた東北帝国大学農科大学(北海道大学)の剣道部が、指導を依頼している。
大正4年(1915年)1月5日、虫歯を原因とする骨膜炎と敗血症を発症し、小樽にて死去。享年77。
孫たちが成人したら読ませるようにと、数々の戦いで負った傷の由来を「七ケ所手負場所顕ス」に書き残した。
遺骨は小樽と札幌の杉村家の墓と、新選組の墓がある東京都北区滝野川の寿徳寺境外墓地にも分骨されており、同志と共に眠っている。
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コメント
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2015年 11月 07日トラックバック:大國魂神社(六所宮)と近藤勇の襲名披露試合 – 幕末維新
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2015年 12月 01日
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2016年 7月 25日
ご投稿ありがとうございます。
板橋の新選組、まだ行けていないので課題なのです。
今度、時間が取れれば訪れてみたいと思っています。
板橋のお墓へ三月に行きました。
局長も土方も、勿論永倉も立派に祀ってありました。この3人のエピソードを見ると、あまり仲良い感じはないのだけど永倉の男気でしょうかね。言うことは言う。己を通す。でも相手を認めることも出来る。カッコいい人ですよね。
子孫が、ホテル経営をして成功したと聞いた事があります。だから、あそこまで立派なお墓が建ったのでしょうね。小樽行った時に永倉の足跡探せば良かったかな〜新選組ファンとしては残念すぎます^^;