佐藤彦五郎(詳細版) 幕末に新選組を支援した日野宿の名主


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 佐藤彦五郎(さとう-ひこごろう)は、多摩の日野本郷名主である下佐藤家・佐藤半次郎の嫡男として、1827年9月25日に生まれた。幼名は庫太(くらた)。
 母の名は佐藤まさ。この母は、土方歳三の父・土方隼人の妹にあたる。

 日野宿の名家・佐藤家は、通称、上佐藤と下佐藤の2軒の佐藤家があり、上佐藤家は祖先の佐藤正信(佐藤隼人正信)が永禄年間(1558年~1570年)に美濃から移り住み、帰農した事が始まりとなり、問屋も務める名主であった。

 この佐藤正信(佐藤隼人正信)は、武儀郡八幡村の出身で、斎藤道三に仕えていた武士であった。
 1556年4月29日、斎藤道三が斎藤義龍に討たれた際に、美濃を去り、兄弟とも一族とも?とされる3人で東国へ赴き、津久井の佐野川(神奈川県津久井郡藤野町)には佐藤才兵衛と、牧野には佐藤一学、そして日野では佐藤隼人が帰農した。

 

 この時、引き連れて来た家臣らを率いて、落武者や野武士から日野村を守ったとされ、1567年には滝山城主・北条氏照から罪人をもらい受けて、多摩川と浅川から用水路を堀った「日野用水」を開削して、実収3000石と言う日野本郷の基礎を作った。
 その後、1570年に北条氏照が甲州街道の前身ともされる街道を敷き、1605年、日野が宿場に指定されると、日野の村人による推挙で日野宿の問屋兼名主となった。

 なお、参勤交替で甲州街道を通過する大名は、高島藩の諏訪家、高遠藩の内藤家、飯田藩の脇坂家(のち堀家)の3藩に限られている。

 下佐藤は天保年間(1644年~1648年)に問屋に取り立てられ、以後、上下の佐藤家が15日交代で問屋を務めたと言う。

 1716年に上佐藤家が本陣、下佐藤家が脇本陣に指定されている。

 そんな下佐藤家に生まれた佐藤彦五郎は、1837年に父が他界した為、11歳で名主(なぬし)見習役に就いた。

 下佐藤12代目を継いで、日野本郷3000石を管理した佐藤彦五郎は、1845年、石田村の豪農・土方歳三の姉である「のぶ(後に、とくに改名)」と結婚し、土方歳三も日野の佐藤彦五郎のもとを度々訪れるようになる。
 もっとも、土方歳三の長兄・土方為次郎(失明している)が、浄瑠璃三味線の趣味を通じて佐藤彦五郎と親しくしていたようだ。

 1849年1月18日、日野宿を焼く大火である「染っ火事」になった際に、盗人が火をつけ、母・佐藤まさが切り殺されたと言う事で、自分や家族を守らなければと考えるようになる。
 そして、八王子千人同心の井上松五郎(井上源三郎の兄)が入門していた天然理心流を紹介され、1850年(24歳のとき)に3代目宗家・近藤周助の門人となり、武芸を学び始めた。
 この縁で、嶋崎勝太(近藤勇)らとも知り合い、土方歳三がのちに試衛館に入るきっかけになったと考えられる。
 また、佐藤彦五郎は技量も優れていたようで、4年半後には免許皆伝をとっている。

 なお、1850年9月10日には、長男・佐藤俊宣(佐藤源之助)も誕生。

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 日野の自邸東側に、出稽古用の道場を設けると、近藤勇、土方歳三、沖田総司山南敬助、そして日野出身の井上源三郎らは何度も赴き、共に稽古に励んだ。
 当初、稽古場は屋外であったが、その後、長屋門に道場を設けた。

 1855年、小野路村の名主・小島鹿之助が近藤勇と義兄弟を交わすと、佐藤彦五郎も近藤勇と義兄弟の杯を交わし、試衛館を経済面でも支援した。

 1860年、盲目の土方為次郎(土方歳三の兄)が、佐藤家に寄宿するようになる。

 1863年、近藤勇らが浪士組に参加することになり京に上洛。
 名主業務の為、赴けなかった佐藤彦五郎はお金を送るなどして資金面で支援し、近藤勇や土方歳三らは、頻繁に書簡送り、上方の情勢を報告などした。
 また、近藤勇の不在中には、多摩近郊に出向いて出稽古もしている。

 多摩郡の代官(韮山代官)である江川英龍から農兵思想を学び、1863年、多摩で農兵を組織する事になると、日野宿組合を中心に農兵隊を編成。
 1866年、武州一揆鎮圧や八王子壷伊勢屋での薩摩浪士の捕縛などにて活躍し、のち下佐藤家に伝わる彦右衛門を襲名。

 壺伊勢屋の浪士狩りである八王子壷伊勢屋の乱闘は、幕末の1867年12月、萩野山中陣屋焼き討ち(荻野山中陣屋焼討事件)に合流する薩摩藩士・上田務らを、兼ねてより昵懇(じっこん)だった江川代官所手代・増山建次郎から相談を受けたものであった。
 ※多摩郡は、徳川幕府の直轄領で、韮山代官所の管轄であった。
 駒木野農兵の鈴木金平らは浪士3人の宿泊した妓楼柳瀬屋へと向かい、代官所の鯨井俊司と、佐藤道場に集まった佐藤彦五郎、佐藤僖四郎、原孝之助、高木吉蔵、馬場市次郎、山崎兼助の6人は、上田務ら薩摩浪士5人が宿泊する壺伊勢屋へ向かった。

 この戦闘で薩摩浪士3人は斬られ、手負いで捕らえた2人は浅川河原で首を打たれたが、上田務は青梅街道から三田屋敷へと逃げている。
 この時、日野剣士の馬場市次郎(前・日野市長の御先祖様)と山﨑兼助が短筒で撃たれて命を落とした。
 佐藤彦五郎も、銃弾を受けたが、運よく太刀の柄に当り、無事だったと言う。

 1868年1月、鳥羽・伏見の戦いのあと、江戸に戻った土方歳三は、江戸にて1月18日に佐藤彦五郎と会見し「もう、槍や刀の時代ではない」と話を聞かされている。
 そのため、佐藤彦五郎は、すぐに同志を横浜に派遣して、600両にて元込銃を20艇購入し、2月1日から日野農兵隊にて訓練を開始した。

 そして、新選組勝海舟から甲府城を新政府軍から守るよう指示される甲陽鎮撫隊(こうようちんぶたい)が編成され、近藤勇・土方歳三らは新選組の生き残り40人が江戸を発ち、3月2日に府中宿に宿泊した為、佐藤彦五郎は会いに行っている。この時、人数が足りないので30名ほど日野の門人を募集して欲しいと頼まれ、急ぎ戻った。
 近藤勇らは3月3日に日野宿にて宿泊。
 この時、佐藤彦五郎は「春日庵盛車(かすがもりあんせい)」と言う変名を使っており、春日隊として農兵22名を指揮すると、3月4日早朝に日野を出発し、与瀬(相模湖)で甲陽鎮撫隊に追いついた。
 しかし、3月6日、大善寺付近での甲州勝沼の戦いに敗れ、9日夜に日野に帰郷すると、3月11日に官軍が甲府からやって来たため、親戚や知人を頼って潜伏し、官軍の追及から逃れるため、身を隠した。

 佐藤彦五郎は大久野村(日の出町)の羽生家に隠れて無事だったが、一緒に甲陽鎮撫隊に加わっていた長男・佐藤俊宣(佐藤源之助)は官軍に捕らえられて、父の隠れ先を厳しく追及されている。
 また、官軍による元込銃の探索が行われ、上佐藤・下佐藤の池ざらいまで行われたと言う。
 田んぼの中に積んであった、肥料用の落ち葉の中から19挺の元込銃を発見すると、官軍が喜んで持っていったと伝わる。
 残った1挺は、日野青年学校に飾られていたが、太平洋戦争に負けた際に、色々な武器と共に、日野児童館の裏あたりに埋められたとされている。
 長男・佐藤俊宣は父の行方を白状しなかった(本当に知らなかったとも?)ため、土佐藩の板垣退助から「稀に見る親孝行者」と称賛され、釈放された。

 その後、日野宿の有志の嘆願によって、2ヶ月後に佐藤彦五郎も復帰を果たしている。

 明治5年(1872年)に、名を佐藤俊正と改めると、明治11年(1878年)、初代の南多摩郡長に就任。
 なお、この年、明治11年1月17日、妻・佐藤とくが47歳で死去している。

 

 明治天皇は明治13年の行幸と、明治14年の狩猟と、2年連続で佐藤家(日野本陣)で小休止(約2時間)をとっている。
 なお、明治13年の行幸には三条実美寺島宗則伊藤博文山田顕義山岡鉄舟らが随行した総勢360名だったと言う。

 明治17年、長男・佐藤俊宣(佐藤源之助)が、雑誌「武蔵野叢誌」に薬の広告と言う事で借りて政府批判をした「日東家伝勅命丸」を投稿したため、明治18年に新聞紙条例違反で重禁固3年の刑を受けている。
 そんな中、佐藤彦五郎は明治21年に、小野路の小島鹿之助と共に、新選組隊士の復権と顕彰に尽力し、亡き近藤勇と土方歳三のため、高幡不動尊の「殉節両雄之碑」の交流などにも携わった。

 明治24年、八王子壷伊勢屋の乱闘で逃れた上田務が、神奈川県知事・内海忠勝として就任し、多摩地域も管轄下に置かれると言う皮肉もあった。
 明治25年に神奈川県知事の内海忠勝(上田勉)は、西多摩郡・南多摩郡・北多摩郡の東京府移管を井上馨に建言。
 この頃、多摩(特に町田の小野路)では自由民権運動が盛んであり、神奈川県議会では移管反対派の乱入事件が発生した。
 佐藤彦五郎も県境域変更の反対を申し入れたが、明治26年(1893年)、神奈川県に属していた多摩郡が東京府に移管されると、この時、佐藤俊正(佐藤彦五郎)は、初代の日野町長になっている。

 晩年は、俳句や文雅をたしなみ、明治35年(1902年)9月17日に死去した。享年76。

 墓所は、日野の大昌寺にある。

 ちなみに、長男・佐藤俊宣(佐藤源之助)は、釈放後、日野郵便局長を26年間務め、昭和4年4月13日に80歳で死去した。


 
 東京都内で唯一となる、江戸時代の1863年に10年掛けて建てられた現在の日野宿本陣が、佐藤彦五郎の本陣兼自宅であり、その裏手に佐藤彦五郎新選組資料館が2005年4月25日、オープンした。

 

 本来の本陣であった上佐藤家の建物は現存していないため、正式には脇本陣と言う事か?
 しかし、幕末には下佐藤家も本陣を称している。

 明治2年に土方歳三が函館で戦死したあと、遺髪と写真を市村鉄之助が、日野の佐藤彦五郎に無事届けます。

 

 市村鉄之助は明治政府からの逆賊狩りから匿う為に、佐藤彦五郎が保護したのですが、この上記写真の部屋にて2年間匿われた。

 

 明治天皇陛下の休み所であった「上段の間」は明治26年に、日野大火で焼けた佐藤彦五郎の4男・佐藤彦吉の養子先の有山家に移築したため、ここにはない。
 しかし、現在、有山家には、この上段の間の建築物は現存しているとの事だが、非公開。
 ガイドさんに話を伺ったら、有山家では現在、上段の間は使用していないとの事だが、どうも、日野本陣に戻して公開するような感じには至っていないと言う。
 実にもったいない話である。

佐藤彦五郎新選組資料館

 佐藤彦五郎新選組資料館へのアクセス・行き方ですが、JR中央本線の日野駅から徒歩8分となっている。
 私設資料館のため、開館日が毎月第1日曜日と第3日曜日の午前11時~午後16時のみとなっている。
 また、状況によっては臨時で休館したり、特別に開館したりする日もあるので、事前に公式HPにて確認の上、訪問願いたい。
 場所は下記の地図ポイント地点。
 車の場合には、駐車場は無いので「日野宿交流館」裏手の無料駐車場を利用しよう。
 いずれにせよ、現在の日野本陣は、若きしの近藤勇・土方歳三・沖田総司らとの出会いがあった場所であり、たっぷり楽しめる場である。

 

大昌寺にある佐藤彦五郎の墓

 佐藤彦五郎の墓は、日野の大昌寺にあります。
 佐藤彦五郎新選組資料館からだと、徒歩3分くらいですので、お時間がありましたら、是非お参りしてみて下さい。

 

 下佐藤家のお墓がある場所ですが、目立つ訳ではないので、わかりにくいです。
 上記写真にある「新選組の旗」が、唯一の目印となります。

 以上、佐藤彦五郎について可能な限り詳しく記載してみました。
 是非、日野へご訪問なさってみてください。

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