荻野山中陣屋焼討事件


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→ 大久保教寛・大久保教翅と荻野山中陣屋からの続きです

幕末期の1867年、倒幕をもくろむ薩摩藩の江戸藩邸で、薩摩藩士・益満休之助、水戸の郷士・相楽総三(小島将満)、武蔵国入間の権田直助、新選組近藤勇と同じ天然理心流の剣術家・結城四郎らが、国学者を中心に薩摩藩邸浪士隊を結成(総裁・相楽総三)し、甲府城の勤番のために藩主が留守中の山中陣屋を襲撃する事件を計画。
11月には、厚木宿で大火が発生している(後藤火事)。

12月13日、長州藩士・海野次郎と偽名を使った薩摩藩の鯉淵四郎ら7名が、江戸の薩摩藩邸を出発した。翌日の夜には相模国鶴間村(大和市)にて寺院などに放火。
12月15日、相模川の厚木の渡しを雨が降る中、渡河して厚木村に到着。
熊沢屋で昼食したあと、石井道三や現地の協力者である荻野村の百姓・鈴木佐吉と弟・鈴木孫太郎、飯山村の百姓・山川市郎などと合流し、鈴木佐吉の家に事前に隠してあった武器・弾薬を手に取り、合計30名以上となった。
そして夕方に出発し妻田村の永野家で285両の軍資金を調達。
荻野新宿で七沢石屋の倅を斬り、夜中の10時頃、20丁の鉄砲を撃ち、山中藩の荻野陣屋を襲撃。

大手門から乱入して長屋などに放火して、金品や武器・弾薬などを強奪し、奉行だった三浦正太郎は重傷となり数日後に死亡した。
奇しくもこの日は、坂本龍馬が暗殺された日でもある。

12月16日、朝7時に公所から棚沢を経て、中津川を渡り、下川入へ入ると、佐野家に5000両を要求して、570両の軍用金を調達し、略奪していた金品を、下荻野村・中荻野村・妻田村・及川村・三田村・飯山村の困窮人に分配したと言う。
その後、信玄道(県道63号→県道65号)を北上して中津村(愛川町)へ向い、熊坂半兵衛家・梅沢董一家(新選組・土方歳三の従弟)で御用金を調達。
夕方の16時頃に三増峠を越え、津久井根小屋(現津久井町)へ入ると豪商・久保田喜右衛門宅に押し入って宿泊した。
12月17日、久保沢(相模原市緑区)では上川尻村の名主・八木兵輔から350両の軍用金を挑発した。
この八木家には5000両を要求し、遅れれば多人数を向かわせ放火すると脅しているので、明らかに「脅迫」している。
なお、この日、祖師堂の勤行の大太鼓の音に驚いた浪士隊は2~3隊に分かれて、片倉(八王子市)を抜けて八王子へ向い、甲州街道を江戸方面に進み、深夜に内藤新宿(東京都新宿区)に到着。三田の薩摩藩邸へ入った。
しかし、浪士隊と通じて陣屋襲撃に協力した荻野の百姓・鈴木佐吉は地元には帰れず、転々としたようだが、12月24日に甲州方面へ出張中の関東取締出役から、捕えた無頼の徒として、鈴木佐吉と山川市郎について山中藩宛てに照会が行われている。
山中藩は博徒ではないと回答したようで、鈴木佐吉と山川市郎は内藤新宿まで護送されたようだが、その後の消息は不明だ。

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江戸幕府は庄内藩、上山藩、鯖江藩、岩槻藩、出羽松山藩が参加して、12月25日に江戸の薩摩藩邸を襲撃したのだ。
そして、正月に鳥羽伏見の戦いとなって行くのであった。

旧幕府軍が負けて、明治となると山中役所は山中民政局と改称された。
その後、明治2年6月に版籍奉還があり、藩主・大久保教義は藩知事となった。
明治4年7月、廃藩置県で荻野山中藩は廃藩となり、荻野山中県が設置されたが、僅か4ヶ月後の11月には足柄県に統合され、明治9年(1876年)には神奈川県に編入された。

1871年(明治4年)に荻野山中県が廃止された後、陣屋跡の一部は民間に払い下げられた。残りの土地は官地となっていたが、それも1932年(昭和7年)には民間に払い下げられ、その際に史跡を記念して長屋跡の一角に「山中城址」碑が建立された。
跡地の一部が1996年に「山中陣屋跡史跡公園」として整備され、稲荷社や湧水が残されている。

山中陣屋跡への行き方だが、無料駐車場へのアクセスが始めてだとがわかりにくい。
国道412号は、ちょっとした高架のようになっているので、国道からは直接は曲がれない。
その為、412号の「信号」がある交差点を西側(川の方角)に入って、国道の下(トンネル)をくぐって、駐車場に入る形となる。
トイレ有で観光所要時間は10分といったところ。

(参考) 市民かわら版

 

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