和宮親子内親王 副葬品の写真は誰のもの?


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歴代徳川将軍の中で写真が残っているのは、第15代・徳川慶喜(1837年~1913年)のみである。
「最後の将軍」となった彼は、写真を趣味とし、隠居していた静岡で、自身の姿のみならず多くの作品を残した。
しかし、この世に彼以外の徳川将軍の写真が存在していた可能性があったことを、貴方はご存知だろうか。

その写真が見つかったのは、昭和33年から昭和35年にかけて東京都港区・増上寺にて行われた、徳川将軍家の墓所改葬調査だった。
調査団が第14代将軍・徳川家茂の正室である、和宮(1846年~1877年)の墓所を開けた時のこと。
和宮の墓所は、皇族出身とは思えないほど質素で、副葬品もほとんどなかった。



唯一見つかったのは、遺体の腕あたりに抱かれるように置かれていた、1枚のガラス板だった。
これを研究者が持ち帰ったところ、湿板写真であることがわかり、長袴の直垂に立烏帽子をつけた、若い男性の姿が写っていたという。
ところが、長く地中に埋められていたこの写真を日光に当てた際に、表面の膜が消え、あっという間にただのガラスになってしまった。
たった1日の間の出来事だった。

では、この写真の若い男性はいったい誰なのか。
有力な候補は2人いる。
まずは、和宮の婚約者・有栖川宮熾仁親王(1835年~1895年)。
公武合体政策により婚約は解消され、和宮は家茂と結婚することとなる。
しかし、運命とは数奇なもので、彼はのちに東征大総督として、彼女が住まう江戸城に攻撃を仕掛ける立場となったほか、正室を水戸徳川家から迎えた。
彼の写真は、幕末から明治時代にかけて何点か現存している。
もう1人の候補は、彼女の夫・徳川家茂(1846年~1866年)である。
短い生涯ではあったが、彼は同い年の皇族出身の妻を慈しみ、仲は睦まじかったようだ。
大阪城にて闘病していた彼の死後、土産として届けられた西陣織を見た和宮が詠んだ「空蝉の 唐織衣 なにかせん 綾も錦も 君ありてこそ」は名歌として知られている。
家茂の写真は現存していないが、同時代の志士たちの写真が数多く残っている点を鑑みると、撮っていても不思議ではない。



上記2人以外にも、例えば写真の主は兄・孝明天皇ではないかといった声もある。
しかし、写真そのものがなくなってしまった今、和宮は誰の面影と眠りについていたのか、誰も知り得ない。
但し、ヒントはある。
増上寺に所在する和宮の墓所は、夫・徳川家茂と並んでいる。
これは彼女の遺言に基づいていると言われるが―彼女が最期を迎えた時、「君ありてこそ」と想った相手は誰だったのだろうか。

【参考文献】
・「骨は語る 徳川将軍家・大名家の人びと」(東京大学出版会/鈴木尚)

(寄稿)河合 美紀

和宮【和宮親子内親王】公武合体の象徴とされた皇女
眠れないほど面白い大鏡① 「時平の笑い上戸」
大鏡② 「賢帝に愛され、中宮に嫉妬された女御」
岩倉具視 倒幕と明治新政府に貢献した公家
徳川家茂~幕府に翻弄され大阪城で殉じた徳川幕府の14代将軍
本寿院~徳川家慶の側室で13代将軍・徳川家定の母
天璋院篤姫とは~薩摩・島津家から徳川将軍の御代に
孝明天皇とは 終始「攘夷」を望んだその生涯と毒殺説
二条城とは~京都における徳川家康の豪華滞在先
芝の増上寺の見どころ~和宮の墓所もある徳川家の菩提寺

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