西南の役・最後の激戦地である延岡「和田越えの戦い」と薩軍解散の地「児玉熊治邸」

和田越えの戦い



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1887年(明治10年)、西南戦争において最期の激戦地となった延岡。
そして西郷隆盛や薩軍の宮崎県における行動などをまとめてみました。

明治10年、当時の宮崎県は「鹿児島県」に編入されていました。
薩軍の目的は東京まで行くことであり、熊本や人吉で敗れても、鹿児島県内に戻れば、地元より支援も受けられて再起できる可能性もあるだろうと言うことで、当時は鹿児島県だった宮崎の延岡に軍勢を集結させたのも、その理由の一端と言えるでしょう。
ちなみに、宮崎県として独立したのは明治15年です。


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熊本城攻略も失敗し、田原坂の戦いのあと、益城の木山での戦い、そして、6月1日、人吉城での戦いにも敗れ、薩軍は延岡方面に集まります。

明治10年(1887年)8月2日、高鍋城がある高鍋にて敗れた薩軍本隊は、本営を延岡に移します。
西郷隆盛は延岡・大貫村、西階城近くにある山内善吉邸に9日間宿陣しました。
この頃、歩くのが困難だったのか?、西郷隆盛は船に乗って川で移動することが多かったようです。
薩軍の部隊は、山蔭城付近や、美々津にも配置されており、桐野利秋村田新八らは宮崎方面から迫る政府軍に備えています。

8月4日、高鍋から陸路を迂回した政府軍の山田顕義少将が率いる別働第二旅団は、鬼神野・坪屋に進軍して、渡川で撃破された薩軍は、山蔭・美々津の防衛に徹します。
8月7日、西郷隆盛は各隊長宛に奮起を促す書状を送っていましたが、別働第二旅団の進撃を防ぎ切れず、山蔭・美々津から撤退して防衛拠点を門川城近くの門川町に移します。
下記は門川の薩軍本陣跡です。

門川の薩軍本陣跡

また、薩軍本営、火薬製作所、病院などを延岡から北方で、野村忍介が指揮する奇兵隊本営があった熊田(北川町)吉祥寺に移しました。
西郷隆盛は船で延岡から北川を上って熊田に宿陣し、翌日13日には少し南の笹首・小野彦治邸に移動します。

明治10年8月12日、山縣有朋中将が総指揮を取る政府軍は3万の大軍にて延岡攻略を開始します。
南・西・北からと薩軍を包囲して殲滅させる作戦でした。

これに対して薩軍は、北川と延岡の間にある北川沿いの「和田峠」近くに展開し、政府軍を迎え撃つ作戦を取ります。

和田峠越えの戦い

8月14日、別働第2旅団が延岡に突入します。
8月15日早朝、西郷隆盛は桐野利秋(中村半次郎)・村田新八・池上四郎・別府晋介、貴島清らと共に、濃霧が立ちこめるなか和田峠に上がり、作戦を指揮しました。
薩軍の総指揮は、桐野利秋がずっと任されていましたが、西郷隆盛が直接指揮するのは、熊本城攻撃以来となり、本格的に直接前線にて指揮するのはこれが初めてとなります。
恐らく、西郷隆盛は政府軍との最後の戦いになると考えていたのでしょう。

西南の役「和田越決戦場」

友内山・無鹿山の山中には、奇兵隊の奇兵隊の伊東直二、飫肥隊の小倉処平、高鍋隊の秋月種事など2個中隊を配備。
神楽田・和田峠には薩軍主力として、相良長良(行進隊)・河野主一郎(破竹隊)・平野正介(常山隊)・阿多壮五郎(干城隊)・新納精一(鵬翼隊)・高城七之丞(正義隊)など7個中隊を布陣。
下記は、延岡にある西南の役「和田越決戦場」となります。

西南の役「和田越決戦場」

和田峠の北や小梓峠には、熊本隊の山崎定平。
小梓峠・長尾山には、野村忍介(奇兵隊)・増田宋太郎(中津隊)・重久雄七(奇兵隊)。
長尾山から西部の可愛岳にかけては、辺見十郎太(雷撃隊)・中島健彦(振武隊)・野満長太郎(協同隊)らの5個中隊を配備。
北部の熊田には、小倉処平・佐藤三二が指揮する5個中隊を残して、北から迫ってくる熊本鎮台兵に備えつつ、予備兵力としました。

しかし、最大時には3万を誇った薩軍も、延岡に陣地を張った時点では約3000まで兵力も減少しており、兵力は政府軍の1割程度と、あきらかに劣勢でした。

8月15日、霧が晴れた朝8時~9時頃、宮崎で最大の激戦が始まります。
官軍は、はじめ堂坂の湿田に進軍を阻まれたところを、薩軍は高所からの有利な砲撃を行いました。

和田越決戦場

そこで、桐野利秋が決死の斬り込みを掛け一時は優勢となりますが、政府軍各旅団は山麓から砲撃し、軍備で劣っている薩軍は苦戦を強いられて行きます。
長尾山、続いて無鹿山は、東海港に停泊した2隻の軍艦より艦砲射撃を受けるなどして敗走し、熊田へと退却しました。
そして、午後14時頃、薩軍の全部隊に、北の長井方面に総撤退する命令が下され、和田峠は政府軍に占拠される結果となりました。

この戦いで西郷軍は100余人、官軍側は201人の戦死傷者を出したと記録があります。
なお、和田越にいた西郷隆盛は、政府軍が迫っても引こうとはしなかったため、周囲の者に担がれて和田越の下から舟に乗せられて、北川を遡り、長井村(北川町)へ退却したと言います。

北川町の俵野にある児玉熊治邸に西郷隆盛は宿陣を張ります。

児玉熊治邸(西郷隆盛宿陣跡資料館)

しかし、その俵野も政府軍に包囲され、児玉熊治邸近くにも砲撃が届くようになり、8月16日、西郷隆盛は、ついに薩軍解散の命を出しました。

我軍の窮迫、此に至る。今日の策は唯一死を奮つて決戦するにあるのみ。此際諸隊にして、降らんとするものは降り、死せんとするものは死し、士の卒となり、卒の士となる。唯其の欲する所に任ぜよ。

西郷隆盛は、陸軍大将の軍服を児玉熊治邸の裏庭で焼いたと言われます。

そして、従僕・永田熊吉に足を切断する大怪我を負っていた長男・西郷菊次郎を託しました。
また、鹿児島から連れてきていた愛犬2匹も、野に放って自由にさせています。

この薩軍解散により、約2000名は政府軍に投降しましたが、約1000名は最期まで西郷隆盛に従うと同行することを決意します。
残った西郷軍は完全に包囲される中、北上を試みますが、豊後方面から進軍してきた官軍に阻まれ、8月17日夜22時、地元猟師の案内にて標高728mの可愛岳(えのだけ)を突破し高千穂へと敵中突破を試みました。

先発隊は河野主一郎・辺見十郎太、中軍には桐野利秋・村田新八、そして、後軍に中島健彦と貴島清が続きました。
なお、池上四郎と別府晋介は約60名にて、歩くのが困難な西郷隆盛の護衛と移送を担当しています。

翌、8月18日早朝、可愛岳の頂上に到着した薩軍は、眼下の政府軍の警備が手薄のところを突くと、不意を衝かれた官軍の第1旅団・第2旅団は総崩れとなり退却しました。
そのため、辛くも西郷軍は突破に成功しただけでなく、官軍が残した食糧、弾薬3万発、砲一門を奪うことに成功しています。
この突破撃破、かつて、薩摩の島津義弘が関が原の戦いにて中央突破して以来の再現であったとも言われています。
そして、薩軍は高千穂方の三田井から山中を約10日間掛けて鹿児島へ向け南進します。
8月19日、祝子川へ出て小野熊治邸に宿陣。
8月20日、鹿川越、鹿川峠、湾洞川越へ。
8月21日、岩戸から三田井へ突入。
8月22日、五ヶ瀬町・坂本へ。
8月24日、西郷軍は七ツ山・松の平を抜け、神門に出ます。
ここで別働第2旅団・松浦少佐の攻撃を受けましたが、8月26日には村所、8月28日には須木を通過して小林に入りました。
そして、9月1日には、官軍の鹿児島守備隊を撃破して、城山に篭りました。
鹿児島の住民は、薩軍に協力もしています。



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西南の役「和田越決戦場」への行き方ですが、東九州自動車道の延岡ICから車で20分の距離となります。
国道10号からそれると、クルマ1台が通行できる狭い山道となりますが、舗装はされています。
駐車場はありませんが、路肩に止められるスペースはあり、駐車禁止ではありません。
交通量もほとんどありませんので、短時間であれば概ね問題ないでしょう。

西郷隆盛が薩軍の解散を決めた、熊田の児玉熊治邸は、現在「西郷隆盛宿陣跡資料館」として公開されてます。
こちらは、無料駐車場も完備されていますが、現地まで至る道は狭いですので、自動車の運転にはご注意願います。

いずれの場所も、当方の九州の西郷どん史跡オリジナル地図にてわかるようにしてあります。

和田越決戦場には、野口雨情の歌碑があります。

“逢いはせなんだか あの和田越で 薩摩なまりの落人に”

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高田哲哉日本の歴史研究家

投稿者プロフィール

高田哲哉と申します。
20年以上、歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して史跡も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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