別府晋介と桐野利秋とは~西郷どんと最後まであきらめずに戦った薩摩藩士


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桐野利秋(きりの-としあき)は、中村与右衛門(桐野兼秋)の3男として1338年12月に生まれました。
上記の写真が桐野利秋誕生地の石碑です。

下記がその桐野利秋誕生地への入口となります。場所ですが地図の説明は本文の最後に入れさせて頂きます。

別府晋介は桐野利秋の母方の従弟と言う関係になります。

その別府晋介(べっぷ-しんすけ)は、別府十郎の次男として1847年に生まれました。
別府九郎の弟であり、従兄に桐野利秋がいます。

別府晋介・桐野利秋の2人は、鹿児島郡鹿児島近在吉野村実方(鹿児島市吉野町)の出身であり、藩士の身分としては城下士で、実の兄弟以上に仲が良かったと言います。

しかし、桐野利秋の方は10歳の頃、父が徳之島に流罪となり、家禄5石を召し上げられています。
兄も18歳のときに亡くなり、この後は小作や開墾をして家計を支えました。

1862年3月、桐野利秋は島津久光に従って上京し、久邇宮朝彦親王付きの守衛を命じられています。
寺田屋事件にも関わりましたが、謹慎だけで済み、以後も倒幕活動を行うと、薩摩藩の家老・小松帯刀から引き立てられ、既に重用されていた西郷隆盛からも信頼されるようになりました。

特に、桐野利秋は長州藩とも繋がりを持ったほか、天狗党の乱の際にも水戸に赴いて武田耕雲斎と藤田小四郎に面会するなど、諸藩の情報収集にもあたりました。

1866年2月の寺田屋事件のあと、桐野利秋は薩摩藩邸で静養する坂本龍馬を毎日のように見舞ったともあり、長州藩士・木戸孝允中岡慎太郎とも親交がありました。

一方で1867年9月3日には、公武合体派の軍学者・赤松小三郎を、幕府の密偵として白昼堂々暗殺するという側面も見受けられます。
坂本龍馬が暗殺された際には、犯人捜しだけでなく、海援隊・陸援隊との連絡役も務め、坂本龍馬の甥・高松太郎や坂本清次郎と墓参りも果たしています。

御陵衛士・伊東甲子太郎らが新選組によって殺害された際には、生き残りの隊士を薩摩藩邸にて桐野利秋が匿っています。

戊辰戦争となると、別府晋介と桐野利秋も薩摩藩兵として出兵しました。

別府晋介は川村純義の城下四番小隊の分隊長として、白河城攻防戦、二本松城の戦に赴き、会津若松城へ向かう際には、十六橋の戦いでも奮戦しました。

桐野利秋は城下一番小隊に所属して、伏見の戦いでは御香宮に戦い、戦功があったことから小隊の小頭見習いとなりました。
その後、西郷隆盛の東海道先鋒隊では、城下一番小隊隊長に抜擢されて駿府城・小田原城を占拠しています。
江戸では、西郷隆盛と勝海舟との会談にも同席したとされ、上野彰義隊との戦いでは黒門口攻撃に加わりました。
そのあと、湯屋からの帰り道で一刀流の剣客・鈴木隼人ら3人の刺客に襲われ、1人を斬り撃退しましたが、左手中指と薬指を失い、横浜軍陣病院で療養しています。

その後、桐野利秋は大総督府直属の軍監となり、薩摩藩と宇都宮藩を率いて藤原口(日光口)、そして会津若松南部の戦いを経て会津若松城に進出。
伊地知正治・板垣退助山縣有朋らと軍議し攻城戦でも貢献しました。
1868年9月22日、会津藩が降伏すると、官軍を代表して城の受け取り役を務めたと言いますが、この時、桐野利秋(中村半次郎)は城中の会津藩士に親身になって接し、男泣きに泣いたとする文献が残っています。
この時の恩に報いる為、のち松平容保はのち人を介して金銀造りの宝刀を贈りました。

明治政府においては、別府晋介は近衛陸軍大尉を任じられ、明治5年には陸軍少佐に昇進しました。

桐野利秋は明治4年に陸軍少将、従五位に叙せられ、明治5年には鎮西鎮台(熊本鎮台)の司令長官となっています。

しかし、明治6年10月、征韓論争で敗れた西郷隆盛が下野すると、2人は辞表を提出して鹿児島に帰郷しました。

明治7年(1874年)、鹿児島に私学校が創設された際には、別府晋介と桐野利秋も尽力し、別府晋介は明治8年に加治木外四郷の区長となっています。
桐野利秋は吉野開墾社を指導して、率先して開墾事業に励みつつ、青年指導に当たりました。
別府晋介の兄・別府九郎(べっぷ-くろう)も、病気で軍を辞めて私学校に入っています。

明治10年(1877年)2月6日、火薬庫襲撃事件・中原尚雄の西郷刺殺計画を知り、私学校で開かれた大評議の際に、桐野利秋が軍を率いて北上することを主張し、決します。

出兵に際して、池上四郎が追加の兵募集を担当し、篠原国幹が部隊編制、村田新八が兵器調達、永山弥一郎が新兵教練、桐野利秋は各種軍備品の収集調達を担いました。

そして、一番大隊指揮長に篠原国幹、二番大隊指揮長に村田新八、三番大隊指揮長に永山弥一郎、四番大隊指揮長し桐野利秋で総司令を兼任。
五番大隊指揮長に池上四郎、六番・七番大隊連合指揮長に別府晋介と言う編成にて薩軍は鹿児島から北上開始しました。

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別府晋介と桐野利秋は最後まで戦いましたが、ついに鹿児島城の城下も西部郡に占拠され、城山が包囲されます。

明治10年9月24日、政府軍が城山を総攻撃開始すると、西郷隆盛・桐野利秋・桂久武・村田新八・池上四郎・別府晋介・辺見十郎太ら幹部約40名は、西郷洞窟の前に整列し、岩崎口にと兵士約300と共に突撃しました。
途中で西郷隆盛が被弾し切腹を覚悟すると、島津応吉久能邸の門前にて「御免なったもんせ(お許しください)」と叫び、別府晋介が西郷隆盛の介錯をしています。

それを見届けた桐野利秋らは、岩崎口の一塁に籠もって戦い続けましたが、味方は相次いで銃弾に倒れ、刺し違えたり自刃し、別府九郎は負傷して投降しました。
桐野利秋は額を打ち抜かれて戦死。享年40。
別府晋介も弾雨の中で自決して果てています。享年31。

なお、西郷隆盛の首は従卒も戦死・行方不明のため不明で、近隣に埋められたものと推測できます。
西南戦争時に「首実験」は行われておらず、首なしの遺体を「西郷隆盛」と検死しました。

西南戦争が終わる4ヶ月前には、木戸孝允が京都で病死し、翌年には大久保利通が刺客に襲われて死亡し、激動の時代も終わりを遂げるのです。

桐野利秋誕生地と別府晋介誕生地の石碑

冒頭では桐野利秋誕生地の石碑がある場所をご紹介致しましたが、別府晋介誕生地の石碑がある場所は、下記の写真の地点が入口で狭い道を入って行きます。

うっかり車で進入してしまうと、戻って来れないような狭い道ですので、ご注意願います。
軽自動車でも厳しいくらいです。

別府晋介誕生地の石碑がありました。
立派な石碑になっていますが、完全に民家の庭先です。

夕方18時以降は遠慮願いたいとの記載もありましたので、くれぐれも失礼の無いようにお願い申し上げます。

桐野利秋誕生地と別府晋介誕生地の石碑がある場所ですが、鹿児島からのちょっとした高台の住宅街のようなところあり、少しわかりにくいです。
両方とも駐車場はありませんが、地図は下記のオリジナルGoogleマップにて、ピンポイントで印させて頂いております。
Googleマップのナビ機能などを使用すると便利です。

南州墓地の墓

別府晋介の墓は、南州墓地にある西郷どんの墓のすぐ右脇にありました。

桐野利秋の墓も、西郷隆盛の墓のすぐ左側にあり、この2人は、未来永劫、西郷隆盛を最後まで補佐しているように思えました。

この南州墓地がある場所は、上記のGoogle地図にもありますがので、ご確認賜りますと幸いです。

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