篠原国幹 陸軍少将を辞して薩軍に加わり田原坂の戦いで散る


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篠原国幹(しのはら-くにもと)は、薩摩藩士・篠原善兵衛の子として鹿児島城下加治屋町で生まれました。
通称は、篠原冬一郎です。
加治屋町と言えば、西郷隆盛西郷従道大山巌東郷平八郎、樺山資紀などたくさんの英傑を輩出している下級藩士の住まいです。
篠原国幹は西郷隆盛より、だいたい9歳年下と言う事になります。
文武両道で知られ、1862年には、有馬新七らと京都にて挙兵して討幕する計画に加わっていましたが、寺田屋騒動となっています。
そのため、鹿児島に戻って謹慎処分となっていました。
その後、許されると、薩英戦争では砲台での守備を担当しています。



戊辰戦争になると、薩摩藩の城下三番小隊の隊長に任命されて、鳥羽・伏見の戦いでも活躍しました。

江戸城近くの上野の彰義隊を攻撃した際には、一番激戦が予想される、正面の黒門口を攻撃しています。
この後、奥羽白川の戦い、会津攻城戦でも軍功を挙げています。

その後、篠原国幹は陸軍畑を歩んでおり、陸軍大佐を経て、陸軍少将になると近衛長官として、明治天皇の前で、軍事演習を披露し、その指揮ぶりが称賛されています。

明治6年(1873年)に、西郷隆盛が鹿児島に下野すると、篠原国幹も陸軍を辞めて鹿児島に戻りました。

そして、桐野利秋村田新八らと鹿児島私学校を設立し、篠原国幹は監督として若手の養成に尽力しています。
西南戦争で出撃となった際には、篠原国幹が部隊編制を行っています。
そして、桐野利秋が総司令となり四番大隊指揮長も兼務、篠原国幹は副司令格の一番大隊指揮長となりました。
身振り手振りの無言で指揮する篠原国幹の威厳は、人望を集めたと言います。

熊本城への攻撃では、村田新八・別府晋介らとともに指揮しています。



やがて官軍が南下してくると、篠原国幹は田原坂に先行して出張し本営を設置し、田原坂の戦いとなります。
しかし、明治10年(1877年)3月4日の早朝、霧が立ち込める中、政府軍は奇襲を行いました。
緋色の外套を着て、手には赤銅装飾の日本刀を提げ、奮闘指揮を執っていたと言います。

吉次峠の攻防戦で、陣頭指揮していた篠原国幹は、鉄砲にて狙撃され命を落としていますが、まさにラストサムライの一人と言って良いでしょう。享年41。

篠原を狙撃させた政府軍の江田少佐も、復讐の念に燃えた薩兵から集中して狙撃を受けており、同じく散っています。
官兵はその後、吉次峠のことを「地獄峠」と呼びました。

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