有馬新七と寺田屋事件とは~強硬に尊王攘夷を実現しようと志した薩摩藩士


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有馬新七

有馬新七(ありま-しんしち)は、1825年11月4日、薩摩藩伊集院の郷士・坂木四郎兵衛の子として、伊集院郷古城村(日置市伊集院町古城)で生まれました。
年表形式も踏まえて有馬新七をご紹介してみます。

3歳のときに、父が城下士である有馬家の養子となります。
その時、連れ子となったため、新七も有馬姓となって有馬新七となり、鹿児島城下の加治屋町へ移住しました。

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有馬新七の叔父としては、坂木六郎貞明(さかき-ろくろうさだあき)と言う、藩主・島津斉彬に抜擢された練武館の教授がいます。
この叔父から真影流(直心影流)を習得したようですが、西郷隆盛も坂木六郎貞明を訪ねては教えを乞うています。

そして、有馬新七は幼い頃から、国史・古典・朱子学と言った教養も身に着け、14歳で元服します。

1843年には、19歳で江戸へ遊学し、崎門学(山崎闇斎派朱子学)で高名な山口菅山(かんざん)に入門しており、まさに文武両道と言えます。
なお、早くから攘夷思想だったようで、1845年には京都にて梅田雲浜ら尊攘派志士と交流し、水戸藩や長州藩にも知られる存在となります。

1850年、薩摩では西郷隆盛・大久保利通らが若手藩士グループとして精忠組の元祖を結成します。
のち、有馬新七正義も精忠組に加わりますが、その中でも、有馬新七は過激派と言う事になります。

1857年、薩摩藩邸学問所教授に就任すると、1860年には石谷領主・町田久成に招かれて石谷奉行にもなり、1861年には造士館訓導師に昇進しました。

しかし、1858年4月、彦根藩主・井伊直弼が大老に就任し、日米修好通商条約が締結され、島津斉彬も死去します。
そのため、有馬新七は、京や江戸に赴いては、月照上人と密会するなどしました。

なお、孝明天皇が幕政の刷新と大名の結束を説く「戊午の密勅」を水戸藩へ下しますが、この水戸への密勅(みっちょく)の諸侯廻送を託されたのは有馬新七(32歳)となります。
この諸侯廻送は、山内容堂、伊達宗城、松平春嶽宛と言う事になり、江戸に持参すると、福井藩邸、土佐藩邸などに届けました。
安政の大獄の頃です。

戌午の密勅と言うのは、天皇は攘夷を望んでおり、攘夷に積極的でない江戸幕府を飛び越して、直接、水戸藩に下した攘夷命令と言う事になります。

有馬新七自身も、水戸藩と共に井伊直弼を暗殺しようと薩摩藩に計画を話した模様ですが、同意を得られず、結果的に水戸藩を中心にして薩摩藩としはて参加せずに「桜田門外の変」となりました。
なお、大久保利通ら40人の同志と脱藩して挙兵しようしたともされます。

1862年からは、島津久光公武合体を推進するため上洛する際には、護衛する藩士のひとりに有馬新七も任命されています。
しかし、国父・島津久光の命を無視して同行せずに、先に京へ向かいました。

久留米藩の神官・真木和泉や田中河内介、長州藩の久坂玄瑞らと、青蓮院宮朝彦親王(しょうれんいんのみやあさひこしんのう)を立てて、柴山愛次郎、橋口壮介らと京都所司代・酒井忠義を暗殺しようと計画を練ったのです。
有馬新七は、妻・ていと離縁して、自らの自叙伝を息子・有馬幹太郎に渡すなどしたと言いますので、覚悟の上洛でした。

このように暴走したため、この頃、まだ倒幕の意志が無かった島津久光は大久保一蔵、海江田武次、奈良原喜左衛門を派遣して説得を試みます。
すでに西郷隆盛、村田新八、森山新蔵らは捕縛されて、薩摩に戻されてましたが、有馬新七の説得には失敗しました。

計画実行が近いことを知った島津久光は「説得に応じずば上意討ちもやむなし」と、奈良原繁(奈良原喜八郎)・大山格之助・道島五郎兵衛・鈴木勇右衛門・鈴木昌之助・山口金之進・江夏仲左衛門・森岡善助ら剣に覚えがある8人の薩摩藩士を鎮撫使(ちんぶし)として送ります。
後から上床源助が志願して加わり、計9名となりました。



寺田屋事件

1862年4月23日夜、最初の寺田屋事件(てらだやじけん)・寺田屋騒動となります。

奈良原喜八郎ら4名は、潜伏先の寺田屋を訪れて有馬新七に面会を申し出ますが、2階から橋口伝蔵が「いない」と言います。
このため、強硬に2階へ上がろうとすると、柴山愛次郎が対応して1階で面談することになりました。

有馬新七・田中謙助・橋口壮介の3人が1階に降りて、奈良原喜八郎らより説得されますが断ります。
そして、薩摩藩邸への動向も拒否しました。
そこに、大山格之助ら4名が追いつき、寺田屋に入り、引き続き説得を続けましたが、君命に従わぬのかと激高した道島五郎兵衛が「上意」と叫んで、田中謙助の頭部を斬り倒しました。
こうして、薩摩藩士同士での斬り合いが始まったのです。

田中謙助は眼球が飛び出たまま絶命。
山口金之進は柴山愛次郎を背後から斬り捨てました。
有馬新七は道島五郎兵衛に反撃し、橋口壮介もは奈良原喜八郎に斬りかかりました。

有馬新七は刀が折れてしまい、道島を組み合って壁に押さえつけたところを、近くにいた橋口吉之丞に対して「オイゴト刺セ、オイゴト刺セ」と怒鳴ります。
その言葉に従って、橋口吉之丞は有馬新七の背中から道島と2人を貫いて両名を絶命させました。

討手では道島五郎兵衛が死亡、森岡善助が重傷、奈良原喜八郎、山口金之進、鈴木勇右衛門、江夏仲左衛門が軽傷となっています。
有馬新七ら志士は、有馬新七・柴山愛次郎・橋口壮介・西田直五郎・弟子丸龍助・橋口伝蔵が死亡、田中謙助・森山新五左衛門が重傷を負いましたが、この2名はのち切腹となっています。

2階にいた尊王派の薩摩藩士の多くは投降し、岩元勇助・西郷信吾・大山弥助(大山巌)・三島弥兵衛・木藤市助(木藤市之介)・伊集院直右衛門・篠原冬一郎・坂元彦右衛門・森新兵衛(森真兵衛)・深見休蔵・吉原弥二郎・永山弥一郎・柴山龍五郎・是枝万助(柴山矢吉)・林正之進・谷元兵右衛門・吉田清右衛門・町田六郎左衛門・有馬休八・岸良三之介・橋口吉之丞の21名が帰藩のうえ謹慎を命じられています。

1階の別の部屋にいた真木和泉など、久留米藩の者は久留米藩に引き渡されました。
引き取り手のいない、田中河内介らは、薩摩藩が預かることになりましたが、それは月照の時と同じく「道中斬捨て」を意味しており、皆、瀬戸内海を船で航行中に殺害されています。

のち、1866年1月23日には、坂本龍馬が襲撃された寺田屋事件もありますが、ここでは、有馬新七のほうをご紹介させて頂きました。

有馬新七、享年38。
壮絶な最後でした。



墓所は伏見・大黒寺で、薩摩九烈士の墓となっていますが、寺田屋・お登勢さんの墓所、松林院も近いです。

NHK大河ドラマ「翔ぶが如く」では内藤剛志さんが有馬新七を演じておられました。
また「篤姫」では的場浩司さんが演じています。
2018年の「西郷どん」では、増田修一朗さんが、有馬新七となります。

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