大山格之助【大山綱良】薩長同盟に調印した薩摩藩士


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大山格之助(大山綱良、大山正圓、大山角右衛門)は、1825年に薩摩藩士・樺山善助の次男として鹿児島城下高麗町にて生まれた。幼名は大山熊次郎。
母は山下氏の娘。

1849年12月26日、大山四郎助の長女・澤と結婚し婿養子となる。
この大山家は西郷家と親戚関係であったことから精忠組に所属し、西郷隆盛大久保利通らとともに文武に励んだ。



雄藩連合を目指した薩摩藩主・島津久光の上洛に随行すると、1862年の寺田屋事件では、奈良原喜八郎らとともに過激派の薩摩藩士・有馬新七らの粛清に参加し、事件の中心的役割を果たしている。
特に寺田屋の2階では大山巌西郷従道・三島通庸らを説得し投降させた。

薩英戦争の際には、大山格之助は斬り込み隊長として桜島湾岸を死守し、武名を高めている

薩長同盟の際には、薩摩藩の代表として大久保利通とともに長州に入り、桂小五郎相手に討幕出兵盟約の調印した人物でもある。

鳥羽伏見の戦いでは抜刀隊を率いて活躍し、1868年の戊辰戦争では、奥羽鎮撫総督府の下参謀として、もう一人の仙台藩に処刑された長州藩士の下参謀・世良修蔵と共に活躍。
大山格之助が率いた新政府軍は、庄内藩の反撃にて連戦連敗を喫し、軍略は無かったようだが、戦後、新政府から賞典禄800石を受けている。

長州藩で大楽源太郎が反乱を起こすと、新政府の命を受けて討伐軍の司令官として鹿児島から派遣されたが、独断にて現地到着後に軍を解散したことから、木戸孝允(桂小五郎)らの反感を買い、西郷隆盛が代わりに詫びている。

新政府においては明治4年の廃藩置県後に鹿児島県の大参事、権令(県令)に就任したが、大山格之助(大山綱良)は島津久光の意を受けて西郷隆盛や大久保利通らを批判している。

1873年(明治6年)、征韓論争によって西郷隆盛らが新政府を辞職し、鹿児島へ帰郷した際には、西郷隆盛の私学校設立などを援助して助けた。



これは西郷隆盛が流罪中に、西郷の親友であった有馬新七を斬ったことを最期まで引け目を感じていた西郷隆盛に追従したとされている。
そして、大山格之助(大山綱良)県令を務める鹿児島県は、新政府に租税を納めないで、私学校党を県官吏に取り立てるなどし、鹿児島県はあたかも独立国家の様相を呈したと言う。

明治10年(1877年)、鹿児島にて西郷隆盛が挙兵し西南戦争となると、県の官金を西郷軍に提供した。
そのため、西郷軍の敗北したあと、罪を問われて逮捕されて東京へ送還となり、のち長崎にて斬首刑となった。享年53。
墓所は鹿児島県鹿児島市の南洲墓地。

(参考)Wikipedia

有馬新七と寺田屋事件とは~強硬に尊王攘夷を実現しようと
征韓論とは西郷隆盛VS大久保利通・岩倉具視の戦い

 

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