愛加那と大山菊子・菊草~西郷隆盛が奄美大島で愛した家族のその後


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愛加那(あいかな)は、西郷隆盛の2人目の妻である。

安政の大獄が始まり、京から戻った西郷隆盛は菊池源吾と変名している。
そして、幕府から命を狙われたりするのを防ぐため、藩命により西郷吉兵衛から西郷三助と称し、奄美大島に逃れた。
このとき、奄美大島の阿丹崎(西郷松の場所)に上陸すると、美玉新行さんが所有する空家を借りて自炊したと言う。
間もなく重野安繹の慰問を受けた他、大久保利通・税所篤・吉井友実・有村俊斎・堀仲左衛門らより書簡や慰問品が何度も送られたとあり、西郷隆盛も返書を出しては情報入手に努めた。
美玉新行さんの空家には約2ヶ月住んだあと、小浜の名門・郷士格である龍家の離れ家に移って世話になった。
そして、奄美大島に来てから10ヶ月後の1859年(安政6年)11月8日に結婚した島妻が愛加那となり、2人は小浜の龍家の離れ(西郷潜居地・奄美市名瀬小浜町)で約2年8ヶ月暮らすことになった。

愛加那とは

この愛加那は、奄美大島・龍郷(たつごう)の名家である龍家(田畑家)の一族となる龍佐恵志(りゅう・さえし)の娘。
母は枝加那(えだかな)だが、父・龍佐恵志は愛加那が6歳の頃に既に亡くなっていた。

異母兄弟を含めると5人兄弟の4番目ではあるが次女で、幼名は於戸間金(おとまがね、おとまがに)と言った。
「於」は尊称で「金」は加那の古称なので、そのまま読むと名は戸間(とま)となる。

2人が結婚したとき、西郷隆盛は31歳で、愛加那は23歳。
西郷が「愛」の名を名乗らせ、愛加那と名を変えた。
加那と言うの敬称であるため、現代風に言うと、愛子と言う意味になるだろう。
すなわち、正式な日本名は龍愛子となる。
※例えば、西郷どんの「どん」は、殿(どん)と言う意味で「どん」も敬称となる。

この時、西郷隆盛は、罪人として流刑ではなく、幕府の目から逃れるための「潜居」であったため、当初、薩摩藩から扶持米6石を受けている。
しかし、奄美大島での孤独な生活に苦しんだ西郷隆盛であり、このように島妻を迎えたようだ。
そして、万延元年(1860年)には12石に加増され、11月2日には長男・西郷菊次郎が龍郷で生まれている。

ただし、この1860年3月3日には桜田門の変にて、大老の井伊直弼が暗殺され、島津久光公武合体のため動き出す。
しかし、大久保利通や小松帯刀だけでは、人脈に乏しく、西郷待望論となっていく。

1861年11月20日、龍郷に建ていた新居が完成し、小浜より家族で引っ越した。

しかし、その翌日に藩からの召喚命令が西郷隆盛の元に届く。
この時、愛加那は2人目の子を身ごもっていたが、西郷隆盛ひとりが鹿児島に帰る事になる。

ただし、事前に帰国の内定(通知)があったため、残る家族のために新居を建てた可能性が強いと感じる。
これは、薩摩藩の規則で、島では妻を娶ることができるが、その島妻はいわゆる妾(めかけ)であり、鹿児島に連れて帰る事は禁じられていた。
そのため、愛加那に新築の屋敷と、新たに買った田一反も与えて、生活が少しでも成り立つよう、西郷隆盛は配慮している。
西郷隆盛は、龍郷(竜郷)に逃れたと言う事でもなく、新居とした龍郷で2年以上暮らしたと言う事でもないので、この点は間違えないように解釈したいところとなる。
また、愛加那が形見とて受け取った西郷隆盛の毛髪があり、そのDNA鑑定から、西郷隆盛の血液型はB型だと判明した。

1862年1月14日、奄美での結婚生活約2年、西郷隆盛は鹿児島への帰途についた。
なお、強風のため2回も引き返し、枕崎に到着したのは2月11日となる。

その後、西郷隆盛は、西郷三助から大島三右衛門と改名し、島津久光に従うも元来仲が悪いのは変わらず、病気療養として指宿温泉に引っ込んでしまう。
大久保どんの説得もあり、上洛するがその途中、下関で待てとの命を無視したとして、鹿児島帰還からわずか2カ月後、西郷隆盛は捕縛されて、今度は徳之島へ罪人として遠島処分となる。
山川港で上陸も許されないまま2ヶ月が経過し、徳之島へ流される途中、1862年6月30日、奄美大島の西古見(奄美大島の最西端)にて数泊したが、龍郷の島役人・得藤長に対して「私が徳之島に参ったと知れば、愛加那(アイガナ)が渡りたいと言い出すだろうが、決して参らぬようお申し付けください」と、手紙を出している。

1862年7月2日、愛加那は長女・菊草(きくそう)を生んだが、7月5日には、西郷隆盛が徳之島・岡前に到着している。(ちなみに村田新八は別船にて喜界島へ遠島)
この話を聞いた愛加那は、徳之島へ移ることを決めている。
愛加那の兄・富謙(ふけん)が、西郷菊次郎を連れて徳之島へ渡る挨拶を、島警護役・桂久武(かつら-ひさたけ)に行ったと記録にある。

徳之島で罪人となったいる西郷隆盛のもとには、8月19日に届いた大島代官所の木場伝内(こば-でんない)からの手紙で菊草の誕生が知らされた。
そして、さっそく翌8月20日に西郷隆盛は返書を出し「召し使いおき候女(愛加那)が決して渡海いたさざるようお頼み申し上げ候」と書いている。

しかし、8月26日、愛加那は菊次郎と菊草の2人を連れて、徳之島の岡前(おかぜん)に渡った。

ところが、島津久光は西郷隆盛への処分が甘いとして、去る7月14日に、西郷隆盛を徳之島から沖永良部島(おきのえらぶじま)へ送るようすでに命令が出されていた。
愛加那が渡った翌日8月27日に遠島命令が徳之島に届き、西郷は徳之島・井之川へ移されたため、愛加那はその翌日、奄美大島に帰っている。

こうして奄美大島の龍郷に戻った愛加那であったが、得藤長、木場伝内、桂久武らがよく面倒を見たようで、西郷隆盛は何度も礼状を出している。

この頃の沖永良部島は未開の地で、徳之島から沖永良部島に送られる16日間の段階から「牢屋」に閉じ込められている状態で、沖永良部島・伊延港に着いてからも、まだ牢屋が完成していないと言う事で、2日間、船中牢屋にいたと言う。

のち、1864年に遠島が解かれた西郷隆盛は、足腰が衰弱した状態となっていたが、鹿児島へ戻る途中、1864年2月23日、奄美大島・龍郷の屋敷にて3泊4日を愛加那、菊次郎・菊草と過ごすことができたのは、あまり知られていないかもしれない。
1864年2月26日、西郷隆盛は龍郷から鹿児島へと向かったが、以後、愛加那と会える機会はなかった。
このときの菊草は1歳8ヶ月のまだ幼な子であり島に残ったが、約10年後に鹿児島の西郷家が引き取った為、再び父・西郷隆盛との再会を果たすこととなる。

明治31年(1898年)、大島島司や笹森儀助らの活動により、奄美大島の龍郷屋敷の庭に「西郷南洲流謫地の記念碑」(碑文は勝海舟)が建立され記念式典に愛加那も列席した。

明治35年(1902年)8月27日、雨の降るなか畑での農作業中で倒れ、愛加那は息を引きとった。65歳だった。
台湾にした西郷菊次郎は、電報を受け葬式に駆けつけている。

西郷菊次郎の子・西郷隆治が昭和5年に建てた、龍郷の田畑家墓地(弁財天墓地)にある墓の銘は「龍愛子」となっている。

下記は愛加那の墓。

上記写真の左の古い方が愛加那の墓で、場所は田畑家墓地の入口から入って右奥にある。
※お参りの際には個人墓地のため、くれぐれもマナーあるご配慮を願いたい。

オリジナルGoogleマップ(奄美大島の欄をご確認願います)

大山菊子

西郷隆盛の長女・菊草(きくそう)は、菊(きく)、キクとも言う。

母・愛加那と奄美大島で育ったが、兄・西郷菊次郎は明治2年に西郷本家に引き取られた。
その頃、明治6年には、菊次郎がアメリカに行っている事を西郷隆盛が書状で愛加那に伝え、菊草と鹿児島に赴くよう頼んでいる。

更に西郷隆盛は、明治6年5月、叔父・椎原国幹(しいはら-くにもと)に、奄美大島に行って菊草と愛加那連れてくるよう依頼。
アメリカの菊次郎にも書簡で伝えたが、西郷の病気療養のためか、話は進まなかった。

しかし、明治7年~明治8年頃、12歳前後になっていた菊草は、鹿児島・武村の西郷家に引き取られた。

その後、菊草が14歳である明治9年10月、従兄弟である大山誠之助(大山巌の弟)と婚約。
しかし、明治10年2月17日、西南戦争が始まり、兄・西郷菊次郎、婚約者の大山誠之助も出陣した。

菊草は、重傷を負って戻った兄・菊次郎とともに、西別府村の納屋に逃れて暮らしたが、父・西郷隆盛が岩崎谷で自刃(49歳)。

戦後、取り調べを受けるも武村に戻り、奄美大島の母・愛加那に、菊次郎が何回か菊草と共に無事であることを知らせている。

明治12年、投獄されていた婚約者の大山誠之助が釈放され、明治13年2月12日、菊草17歳は大山誠之助30歳と結婚した。

米子、慶吉、綱則、冬子の4人の子に恵まれたが、夫の借金や家庭内暴力などで長く苦労したようだ。

明治26年1月5日には、大山巌が西郷菊次郎宛てに「実弟・西郷誠之助がまた不始末をおこして面目ない。」と記している。

その後、大山巌は、西郷隆盛の妹・大山安子(大山巌の兄嫁)らと相談し、大山誠之助の借金返済のため鹿児島の大山家を処分。
大山誠之助と大山菊子の家族は東京に移り、子供たちは大山巌・山川捨松の夫妻に引き取られた。

長男・大山慶吉は大山巌に引き取られたあと学習院に入学。
明治40年には陸軍士官学校を卒業し、陸軍少佐にて昭和17年2月27日に没した。

明治35年に母・愛加那が亡くなったが、菊草は奄美大島で別れて以来、一度も母には会わないままであった。

明治40年頃になるとようやく大山誠之助と別居することができ、京都市長を務めていた兄・西郷菊次郎が大山菊子を保護している。
そして、明治42年9月7日、大山菊子は京都で亡くなった。47歳。
墓は東京都杉並区の大円寺。

なお、西郷隆盛には3番目の妻・西郷糸子(イト)もいる。

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