山川捨松 (2) 日本人女性で初めてアメリカの大学を卒業


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← 山川捨松(山川さき、山川咲子、大山捨松)(1)幼いながらも会津若松城での籠城戦に加わる

 新政府軍に負けた会津藩は、青森移付となり、藩士の生活は困窮を極めた。
 この時、山川家も例外ではなく生活が苦しくなり、末娘・山川咲子を函館の沢辺琢磨のもとに里子に出した。そして、沢辺琢磨の紹介で、函館のフランス人家庭に引き取られたのだ。
 しかし、そこでフランス流の生活様式やフランス語を学ぶことができ、当時の女性としては最先端の西欧の知識を身に着けることとなった。
 やがて山川大蔵の弟・山川健次郎が、明治政府の国費でアメリカに留学したが、そのあと、北海道開拓使の研修目的の女子留学生の募集があった際に、満11歳になっていた山川咲子を応募させ、山川咲子も明治4年にアメリカへ留学した。

 この時、母・山川えんが、咲子を山川捨松と改名している。

 この時の女子留学生5名のうち、16歳だった上田悌子、吉益亮子の2名は、ほどなくホームシックにかかり、病気などを理由にして、その年のうちに日本に帰国。
 逆に山川捨松(12歳)、永井繁子(10歳)、津田梅子(9歳)の3人は、まだ幼かった事もあり、異文化での暮らしに順応し、この3人は、日本に帰国後も親友として、また盟友として末永く交流を続け、日本の女子教育発展に大きく寄与した。
 山川捨松はコネチカット州ニューヘイブンのリオナード・ベーコン牧師宅に寄宿し、そこで4年近く、ベーコン家で娘同様に過ごし英語を習得した。
 このベーコン家の14人兄妹の末娘が、山川捨松の生涯の親友の一人となるアリス・ベーコンである。
 山川捨松はその後、地元ニューヘイブンのヒルハウス高校で学び、永井しげとともにニューヨーク州ポキプシーのヴァッサー大学に入学。
 ヴァッサー大学は全寮制の女子大学で名門校。

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 東洋人の留学生などは大変珍しい時代に「焼玉押さえ」など武勇伝もあるサムライの娘・スティマツは、容姿端麗な美しさもあり、すぐに学内で人気者となった。
 大学2年生の時には学生会の学年会会長に選ばれ、また傑出した頭脳をもった学生のみが入会を許されるシェイクスピア研究会やフィラレシーズ会にも入会し、ヴァッサー大学を学年3番の通年成績で卒業している。
 そう、アメリカの大学を卒業した初の日本人女性は、この山川捨松なのだ。
 卒業式に際しては卒業生総代の一人に選ばれ、卒業論文「英国の対日外交政策」をもとにした講演は、地元新聞に掲載されるほどの内容であった。
 留学生には帰国命令が出ていたが、山川捨松は滞在延長が許可され、さらにコネチカット看護婦養成学校に1年近く通い、上級看護婦の免許を取得。山川捨松はこの前年に設立されたアメリカ赤十字社に強い関心を持っていたのである。

 そして、山川捨松は明治15年(1881年)に帰国。横浜港には、結婚のため1年早く帰国していた永井繁子が出迎えている。

 → 山川捨松 (大山捨松) (3) 大山巌との結婚

 

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