下田歌子 宮中の皇女教育にも貢献した女性教育者


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 下田歌子(しもだ-うたこ)は、岩村藩(岐阜県恵那市)の武家の娘として1854年8月9日に生まれた。
 最初の名は、平尾鉐(ひらお-せき)と言う。東条琴台の孫でもある。

 尊王攘夷派であった父が蟄居謹慎となり貧しくて苦労したようだが、平尾家は学問に秀でた家柄であり、祖母から読み書きを習い、俳句・漢詩・和歌などを5歳で作るなど早くも才能を発揮していたようだ。
 そして、母と共に幼い頃から働いて家族を支えたる傍ら、書物を読んで、それが善い事だと思ったら、すぐに行動に移していたと言い、例えば親孝行を説いた書籍に、自らが裸になって蚊を引き寄せ、両親が蚊に刺されるのを防ごうとあると、それを実践したと言う。

 明治になると、祖父と父は新政府に出自することなり東京に出た。
 17歳になった平尾鉐も、その後を追って上京したのだが、その際に故郷の国境である三国山の峠で「綾錦着て帰らずは三国山、またふたたびは越えじとぞ思ふ」と言う歌を詠んでいる。

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 明治5年(1872年)、平尾鉐の聡明さが評価されて、女官に抜擢されて宮中へ出仕した。
 武家の娘として身に付けた礼儀作法や、儒学者である祖父仕込みの知識の豊富さ、そして、和歌の才能などで皇后・美子さまから寵愛され「歌子」の名を賜った。
 そして、宮廷では和歌を教えるようになる。

 明治12年(1879年)、剣客・下田猛雄と結婚。そのため、宮中を辞したが「下田歌子」と呼ばれるようになった。
 明治15年に夫が病に伏せったが、看病をするかたわら、自宅にて「桃夭女塾」(とうよう)(下田学校)を開講する。
 これは、当時の明治政府高官の妻が、芸妓や酌婦が多かったこともあり、一時は200名以上に正統な学問のない彼女らに古典の講義や作歌を教えたと言う。

 明治17年(1884年)、夫・下田猛雄が病死。
 その後、塾の実績と皇后・美子の推薦があり、新設された華族女学校の教授になった。
 明治18年には学監に就任し、華族の子女のみが学ぶ学校にて、古式ゆかしい儒教的な教育を行ったと言う。

 また、宮中の袴をもとに優美かつ活動しやすい華族女学校の制服として「女袴」を考案し、この女袴は、現在でも日本中の卒業式で女子大生が着用している。

 明治26年(1893年)の春、下田歌子は常宮親王・周宮内親王の御養育主任である佐々木高行より、皇女教育のための欧米教育視察を命じられる。
 目的としては皇室の伝統を守りつつも、常宮親王・周宮内親王が海外からの賓客と接しても恥ずかしくない、時代に応じた皇女として教育する者を要請するためであり、下田歌子は初めての海外渡航となった。
 1893年9月に横浜港から発ち、ブライトンで英語学校に通ったあと、12月にはロンドンへ赴いた。
 そこでエリザベス・アンナ・ゴルドンの知遇を得ると、ヴィクトリア女王の孫娘が受けている教育や生活に触れている。

 イギリスでは国民と親しく交わる女王一家や、王女が自ら主婦として家族を支える姿に強い感銘を受けたと言い、これらの女性たちの豊富な知識や意志の強さ、行動力は「教育と生活習慣」によって培われたことに気が付いた。

 明治27年(1894年)12月、下田歌子は皇女教育の目的を超えて、一般の女学校も視察をし、明治28年(1895年)の春にはチェルトナム・レディーズ・カレッジの校長ドロシア・ビールと面会すると、高齢で多忙な中、学校の生徒や家族と同様に下田歌子にも接してくれた厚意を、下田歌子は「真の親切」として、その人格と学問の深さ、教育に対する高い理想があることを知った。
 その後、下田歌子はケンブリッジ大学の女子学寮ニューナム・カレッジや、女子教員養成校であるケンブリッジ・トレーニング・カレッジを視察し、さらに湖水地方やスコットランドや、フランス・ドイツ・イタリアなどの女子学校も精力的に訪問。
 その間、ヴィクトリア女王との謁見も果たしている。

 これらのヨーロッパ視察によって、キリスト教の信仰が自主独立と慈善博愛の精神を育んで、学校教育や生活習慣の基盤になっていることを理解し、最新の科学にもって、育児、教育学、衛生、生理、看護などの知識が得られているとも認識した。
 そして明治28年8月に帰国すると、皇女教育をめぐる宮中の勢力争いに巻き込まれていく事になる。

 帰国後、下田歌子は「帝国婦人協会」を設立して「日本が一流の大国と成らん為には大衆女子教育こそ必要」と女性の教育や地位向上・生活改善をはかるべく奮闘。
 勉強の機会に恵まれない女性のため、地方講演に頻繁に出かけたり、自ら生徒の保証人になったりと多くの女性の面倒をみたと言う。

 また、成瀬仁蔵が日本女子大学を創設した際には、広岡浅子らと共に設立資金を寄付している。

 1899年(明治32年)には、実践女学校・女子工芸学校を創立(実践女子大学)。
 1904年の卒業式では「蛍の光」が日本で初めて歌われたとされている。

 明治39年(1906年)、華族女学校が学習院に統合されて、陸軍大将・乃木希典が院長に就任すると、下田歌子は方針をめぐって対立している。

 大正7年(1918年)3月、板垣退助の夫人・板垣絹子に招聘されて、東京広尾の「順心女学校」創設時の初代校長に就任し女子教育に取り組んだ。

 昭和11年(1936年)10月8日の死去まで、生涯を女子教育の振興にささげ、実践女子学園の基礎を築いたと言う。享年82。

 生誕地の岩村城跡公園には、下田歌子が幼少期を過ごした勉強部屋を再現した「下田歌子勉学所」や、下田歌子の銅像などが建てられている。

 (参考) 実践女子大学/実践女子大学短期大学部、Wikipedia

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