藤山一郎とは 国民的歌手として長年活躍

藤山一郎



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藤山一郎(ふじやま-いちろう)は、昭和初期に活躍した歌手で、生まれは明治44年(1911年)になります。
本名は、増永丈夫(ますなが-たけお)、父は、モスリン(毛織物)問屋・近江屋の番頭で、母はその近江屋の養女と言う立場です。
藤山一郎は5男で、出身は東京都中央区日本橋蛎殻町となります。
慶應義塾大学を卒業とたあと、1929年(昭和4年)には、東京音楽学校(東京藝術大学音楽学部)に入学します。
慶応大学の在学中には、応援歌「若き血」の歌の指導を行ったとも。
オペラ歌手になることを目指していましたが、関東大震災や金融恐慌の影響で実家が借金を背負っていたため、東音の在学中から、レコードの歌手業を始めます。
しかし、学校の規則では校外での活動が禁止されていたため、「藤山一郎」と言う芸名にて活動したのです。



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在学中の1931年9月には、コロムビアの古賀政男が作曲、高橋掬太郎作詞の「酒は涙か溜息か」が、100万枚を超える大ヒットとなりました。
当時、日本国内にあった蓄音機(レコード再生機)が、20万台しかなかったと言う時台での100万枚ですので、とてつもない記録であることが伺えます。
更には、古賀政男作曲の「丘を越えて」も、大ヒットしました。
ただし、レコード会社との契約は、売上に関係なく1曲あたり15円のアルバイト料だったようです。
当然、大ヒットしたことで、学校に、藤山一郎は増永丈夫だと密告されてしまいます。
しかし、アルバイトで得た収入は、すべて実家に入れていたことなどを理由に退学処分は免れ、1ヶ月の定額と、今後のレコード吹き込み禁止の裁定となりました。
ただし、歌手として迎えたいビクターは、卒業までの約1年間、毎月100円の学費援助を行っていたとの事です。
そして、1933年(昭和8年)3月に、藤山一郎は東京音楽学校を首席で卒業と、学業も大変優秀でした。

卒業すると、学費の援助も受けていたビクター専属歌手になっています。
当初の契約では、月給100円と、レコード印税2%だった模様です。
このように、コロムビアの古賀政男とのタッグは組めなくなりましたが、逆にオペラ歌手の分野では、本名・増永丈夫の名前でコロムビアからレコードも出しています。
しかし、歌謡曲・流行歌では、古賀メロディーほどの大ヒットには恵ませんでした。
そのため、3年の契約が切れると、テイチクに移籍していた古賀政男の誘いもあり、契約金1万円で移籍しています。



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1936年(昭和11年)、古賀政男作曲の「東京ラプソディ」が35万枚の大ヒットとなり、実家の借金を全額返済しています。
東京ラプソディと言う同名の映画も制作され、藤山一郎が主演しました。

1939年(昭和14年)、テイチクと古賀政男の関係が悪化していたこともあり、契約が満了すると、藤山一郎と古賀政男は2人でコロムビアに移籍しています。
1941年(昭和16年)に太平洋戦争に突入すると、読売新聞社の南方慰問団に加わり、1943年2月から、ボルネオ島(カリマンタン島)バリクパパン、スラウェシ島、ティモール島などを慰問し、持ち歌や軍歌などを歌いました。
しかし、途中の高雄港では、アメリカ海軍の潜水艦から魚雷攻撃を受けるなど、危なかった場面もあったようです。
2回目の慰問からは、月給1800円、少佐待遇だったようで、ジャワ島など最前線を訪問しています。
3回目の訪問中に終戦となり、インドネシア共和国によって逮捕されて、ジャワ島の刑務所に収容されています。
その後、日本人らの身柄はイギリス軍に引き渡されて、1946年7月25日、復員輸送船になっていた航空母艦・葛城にて、広島県大竹港に到着し、日本に無事帰国しました。
東京の自宅も戻ると、NHKが取材に来るなどして、藤山一郎の帰国はニュース報道されました。

戦後は、奈良光枝とのデュエットで知られる「青い山脈」が大ヒットし、国民的歌手として生涯の代表曲となっています。
NHK紅白歌合戦には、1950年の第1回から1992年の第43回まで、歌手または指揮者として43回連続出演しました。
1982年には勲三等瑞宝章。1973年は紫綬褒章を受章し、そして1992年(平成4年)には、国民栄誉賞を受賞。

長年、国民に希望と励ましを与え続けた藤山一郎でしたが、1993年(平成5年)8月21日、急性心不全のため死去。享年82。
墓所は静岡県の冨士霊園です。



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2020年上期のNHK朝ドラ「エール」では、藤山一郎をモデルにした山藤太郎を、劇団四季で活躍していた俳優の柿澤勇人さんが演じられます。

(参考) 藤山一郎オフィシャルサイト

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高田哲哉日本の歴史研究家

投稿者プロフィール

高田哲哉と申します。
20年以上、歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して史跡も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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